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    <title>北海道建設新聞社</title>
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      <title>北海道建設新聞社</title>
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      <title>2008年11月21日</title>
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      <description>　▼ことし1月だった。米国である実験結果が発表された。同じワインでも、値段が高いと聞いてから飲むと、より高級な味がする―。思い込みが判断にどう影響を与えるか。脳の働きを調べるカリフォルニア工科大学のまじめな研究なのだが。90のワインを90と10、5のものを5と45とに表示し、20人に飲んでもらった。すると、高い値段がついたワインを飲んだとき、脳がより反応したという。　▼以下のワインの話はフランスであったことだという。ある地方のある村で、村祭りのときに村人たちがそれぞれワインを持ち寄り、広場に置いた大だるに入れ、みんなでそれを飲んで大いに楽しもうとの催しが考えられた。祭りの日、大だるに持ち寄ったワインが注がれていった。飲む段になり、村人たちは待ってましたとばかりワインを口にすると、それはまったくの水だった。自分だけが水を入れたって、わかりはしまい―。村人全員そろって同じことをしたのだったという話だ。　▼11月の3回目の木曜日、きのう20日はボージョレ・ヌーボー解禁の日だった。20日になる寸前にコンビニに行ってみると、20日になるや販売できるように瓶を並べていた。飲んだろうか。米国の実験話を持ちだせば、味を楽しむのは難しいわけだが、ヌーボーは新鮮さを楽しませてくれる。フランスの村の話ではないが、食の偽り横行の今だが、中身は水だったとしても体に悪くはない。それは冗談として、良きことが少ない世だから、流行事を好まない人も一つ楽しんでみてはどうか。</description>
      <pubDate>Fri, 21 Nov 2008 09:52:04 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月20日</title>
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      <description>　▼憂いの秋である。嫌な事件が起き続けるが、18日からはこの事件がニュースで繰り返されている。元厚生事務次官宅連続襲撃事件―。元厚生事務次官・山口剛彦さん夫妻が自宅で殺害された。同じ日、元厚生事務次官・吉原健二さんの奥さんが自宅で刺され、重傷を負った。被害者のことを考えると、連続テロだ―に、見方は傾く。警視庁も同見解だ。そうでなくともだが、こういう犯罪が起きることを憂う。　▼「国民の厚生行政に対する不信感が根底にあったにしても、非常に恐ろしい空気ではないか」「死を迎えた人間に向ける言葉だろうか」。これは、同事件に関してインターネットに書かれた意見だ。恐ろしい空気、とは犯行の方を賛美するような声が少なくないことだ。書きたい放題のネット言論であるが、人が命を失う悲、人が命を奪う非の方に目を向けないのはどうか。同事件とともにこのことも憂う。そうした書き込みは、それ一つでまともな意見を吹き飛ばすくらいにひどい。　▼それを読ませることになるが、「ふざけた年金制度をつくった。身から出たさび」「犯人に同情してしまう。被害者でなく」「被害者への同情の気持ちはわかない。同情されないほどのことをしてきたんだ」「(官僚時代には)家族もいい思いをしたんだろう」「どこまで続くか、高見の見物」…。こんなのが自由に書かれる。こういう思慮のない行為は、同事件を起こした者と同じ領域にいると言えるのではないか。こういう土壌から事件が起きたかもしれないわけで、強く憂うのだ。</description>
      <pubDate>Thu, 20 Nov 2008 09:59:33 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月19日</title>
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      <description>　▼文化の秋である。文化を生かす、はぐくむ、支える、成熟させる…もの―土木のことを思う。11月18日は、「土木の日」だった。24日までの1週間は、「くらしと土木の週間」である。主催する土木学会は、この18―24日の間に全国で一般市民が土木事業に対して理解を深めることに力を注ぐ。学会も一般市民のために土木事業がまだまだ必要と説くが、甚だ残念なことに一般市民の理解がまだまだである。　▼建設人には釈迦(しゃか)に説法―だが、土木という言葉は中国・前漢時代の書物「淮南子」の記述に由来する。「聖人乃作為築土構木」。同書は、今から21世紀余り以前のものだ。日本でも鎌倉時代から記述が見られる。土木という営みは遠い時代から行われ、ずっと人類の歩みを促してきたわけだ。英語で、土木は、市民のための基盤をつくる技術と定義して「シビル・エンジニアリング」。土木の重要性を端的に示す。一般市民にはこういう土木のことを知ってもらいたいものだ。　▼人がより良くあるための文化を生かす、はぐくむ、支える、成熟させる…もの。それもまた文化、大事な文化にほかならない。土木は工事、公共事業といった狭い視野でとらえられ、公共工事不要論の風を受けてもいる。文化のとらえで見られていいはずだ。「文化というものを、上から下へ向かって押しつけてはならない。それは下から盛り上がるはずのものだから」。英国の作家リードがそう説いているのだが、理解を求めずとも土木が尊ばれる状況に早く到達してほしいと思う。</description>
      <pubDate>Wed, 19 Nov 2008 09:54:23 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月18日</title>
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      <description>　▼落ち葉の秋である。みんなを楽しませた紅葉も多くが姿を消した。錦のようにきれいだった山は、すっかり褐色になっている。どこかに落ち葉のスイッチがあるようだ。先日まで葉があった庭の木も、すっかり枝だけの姿になっていたりする。寂しいが、これも自然のことわりだし、落ち葉の赤や黄や茶が交じり合うのも美しい。イチョウは、あちこちに金色のじゅうたんを敷く。落ち葉の秋もいいものだ。　▼「津の国の難波の春は夢なれや蘆(あし)の枯葉に風渡るなり」(西行)。桜の花をめでた西行だから、蘆の枯葉にそう詠むだろう。が、いにしえの人の多くは花から紅葉、そして落ち葉にも美を感じている。「風吹けば落つるもみぢ葉水きよみちらさぬかげさへ底に見えつつ」(凡河内躬恒)。「吹く風の色のちぐさに見えつるは秋の木の葉のちればなりけり」(詠み人知らず)と詠んだ。風吹くと言えば、風に舞う落ち葉の音、マロニエのような大きな葉が踊るさまも人を楽します。　▼枝だけの姿になってしまった木々には冬が見え隠れする。ここ北海道だと、雪が枝を白くするのがちらつく。今週の終わり、22日は「小雪(しょうせつ)」だ。「暦便覧」―「冷ゆるが故に雨も雪と也て下る」。雪が降るようになると、季節の歩みを教える。ここ北海道だと、もうこうして降っているのだから、降った雪が消えにくくなるということか。が、落ち葉が雪の間にのぞくさまもいい。今も美しいときなのだ。季節の歩みの場面場面を喜べば、迫る長い冬もいろいろ楽しめる。</description>
      <pubDate>Tue, 18 Nov 2008 09:51:29 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月15日</title>
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      <description>　▼夜長の秋である。早くやってくる夜にできなくなることが増えるが、楽しんでいいことも増える。本を読む。音楽に耳を傾ける。星に親しむ…。楽しみはいろいろとあるが、お酒を味わうのもいい。「深まってくる秋とともに飲みたくなるのはやはり日本の酒である。一人で部屋で仕事から解放されたあと、魚のひらきなどを焼いて飲む」と、三木卓も書いている。特に日本酒が秋の風情にぴったりでいい。　▼「日本酒には、自分で肴(さかな)を発見するという楽しみがある」と書いたのは、高橋義孝である。筆者などは酒も肴にしたりする。地酒の本を開くと、兵庫の「赤とんぼ」、山形の「紅葉盛」、千葉の「名月」、京都の「菊吹雪」…。酒名から秋の風情が楽しめるのだ。田村隆一は、「酒は、その土地の文化の結晶なのである」と書いている。「岩手誉」「秋田誉」「会津ほまれ」「能登誉」「隠岐誉」「鳥海誉」…。誉、に郷土の誇りを込めた日本の土地土地を思うことも楽しめる。　▼「どうして旅に出ると、うまい酒に出会うのであろう。東京でどんな高級なウイスキーを飲まされても、あの旅情にひたりつつの酒にはかてない」。元気だったころの赤塚不二夫がそう書いている。話の向きは少し変わるが、この心情に遠いところにいるのは麻生首相だ。有名ホテルのバーですごす日々だが、首相にも日本酒を味わうことを薦めたい。料亭へ、ということではない。家で日本酒をやりながら日本の風情、土地土地のことを思う夜長の秋を首相も大事にしていいことだ。</description>
      <pubDate>Sat, 15 Nov 2008 10:00:00 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月14日</title>
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      <description>　▼読書の秋である。「あべこべ物語」(講談社、旧題「あべこべ玉」、1934年)を読んだ。それは、35年前のきのう11月13日に亡くなったサトウハチロー(1903―73年)が書いた児童小説だ。詩、童謡、歌詞、随筆、小説…。サトウハチローはたくさんの仕事をしたが、「あべこべ物語」は児童小説の名作とされた。書かれて70年以上経るわけだが、扱われていることは過去のものになってはいない。　▼ある日、わんぱくで人気者の中学生の兄、おしとやかで内気な妹に大事件が起きる。叔父さんがお土産に不思議な玉を持ってきたが、願いをかなえる玉だった。二人が互いをうらやましいと思った途端だった。山中恒の「おれがあいつであいつがおれで」(79年)も入れ替わりの話だが、二人は玉の魔力で入れ替わってしまう。二人の生活も周囲の人も変化していく…。二人を通して男性と女性の違い、人それぞれの個性の違い、その尊さが浮かび上がる。大事な問題が扱われている。　▼母に関する詩のあれこれや「長崎の鐘」「リンゴの唄」…。この季節ならすぐ「ちいさい秋みつけた」を口ずさむだろう。サトウハチローのそれらはずっと親しまれている。が、「あべこべ物語」は読まれているのだろうか。読んで思ったことだが、違いの尊さが軽んじられている今日だけに子供たちに読ませたいし、大人たちにも読んでほしい。学校や社会が尊べ―と諭しても、そうならない。そうさせる魔法の玉もない。けれど、読むという行為は子供にも大人にも気づきをくれる。</description>
      <pubDate>Fri, 14 Nov 2008 09:52:11 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月13日</title>
      <link>http://e-kensin.net/modules/weblog/details.php?blog_id=1719</link>
      <description>　▼ファッションの秋である。「秋は大人っぽい服装を着たくなる季節で、ことしの秋は黒が注目」。ファッション業界は情報をさまざまに発信し、おしゃれを楽しむ人はあれこれ工夫して着飾る。そんな人が街を軽やかに歩くのを見る。美しい。が、ファッションはそれだけでなく…。街では建設業界の男たちが働くのも見る。防寒作業服を着込み、現場を動き回っている。この男たちのファッションも美しい。　▼ファッションと言えば、かつて建設業界もファッションショーを行ったことがある。平成5年ころだった。本道でもホテルを会場に行われ、ステージで現場作業着が輝いた。3Ｋ問題、若年建設従事者の確保問題を背景に業界のイメージ向上を図るものだった。思い起こせば、現場の美化にとどまらず、テレビ、ラジオ(本道「たくましい腕のラブレター」)も活用。さまざまに業界の姿をアピールした。振り返れば、難しい課題はあっても、立ち向かえる環境にある建設業界だった。　▼この10年余の建設業界の追われ方は何なのだろう。公共事業のムダ論や不正に伴う公共事業批判、財政事情などに工事減一途となった。が、工事減だけにとどまらずに今や…。イメージ向上の取り組みでは国も構造改善プログラムでてこ入れしたが、今や…。ファッションのことに話を戻せば、霞が関や永田町の今ごろの関心事は政府推進のウォーム・ビズのファッションか。本道にはもう冬が混じる。仕事があり、防寒作業服を着ていても、男たちは寒い。先々のことを考えて寒い。</description>
      <pubDate>Thu, 13 Nov 2008 09:59:55 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月12日</title>
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      <description>　▼憂いの秋である。1911年の騒動を思い起こしながら、今を憂う。騒動とは、夏目漱石の文学博士号辞退だ。文部省は、漱石に文学博士号を授与することを決めた。が、漱石は「小生は今日までたゞの夏目なにがしとして世を渡って参りました。是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮らしたい希望を持って居ります。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります」。文部省は、辞退を問題にした。　▼追加景気対策で打ち出された「生活支援定額給付」は、法律で支給対象を限定せず、所得制限を行わないことに決まった。高額所得者には辞退を促す方式にすることに決まった。今を憂う、はこの支援給付問題のことだ。発表から実施の方法を巡って迷走し、結局は辞退方式ときた。漱石の騒動で、文部省が授与してもらおうと辞退取り消しを促したことは理解できる。受け取らないよう辞退を促す―の支援給付は、事情がどうあれ、おかしい。何が何でも支援給付という政府を憂う。　▼高額所得者でも給付を望めば拒否しないとしたのも変だ。所得制限は行わないが、高額所得の線引きは示した。それ以下は、支援が必要な所得の少ない人、麻生首相が言う「貧しい」人ということらしい。たゞのなにがしの庶民とは、富裕の感覚が違う。そんな支援給付、そしてその景気への効果も憂う。漱石の辞退騒動で、世間は漱石に拍手かっさいした。支援給付に対しては、世論調査で「評価しない」が朝日新聞63％、共同通信58％、ＮＨＫ57％だ。政府の怖い勘違いを憂う。</description>
      <pubDate>Wed, 12 Nov 2008 09:30:00 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月11日</title>
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      <description>　▼鑑賞の秋である。例の「真の近現代史観」最優秀論文、田母神前防衛省航空幕僚長の「日本は侵略国家であったのか」を手にした。「我が国は侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である」。報じられた主張の眼目だけで驚かされたが、読んでみると、なお一層驚かされた。公正な資料の扱い、諸研究の吟味、客観的な判断などの上に導かれる結論にほど遠い。これが論文で、しかも最優秀とは、である。　▼対華21箇条が中国侵略の始まりとする論に対し、「昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在しない」。満州の人口増を取り上げ、「それは豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけはない」。朝鮮や台湾に帝国大学をつくったことなどを挙げ、「列強の植民地統治とは全く違っている」。そんな記述に6000字が費やされている。百歩譲り、歴史をどう解釈しようといいとしても、都合良すぎる。論文というより作文だった。　▼アラン「戦争が欲せられたものではなく、常に余儀なくされたものだと思うが故に、戦争の聖なる旗印を自分の周りにさがす」の言を思い浮かべた。戦争を教訓にしない人はそうなる。百歩譲り、都合良すぎる解釈でいいとしても、戦争の悲惨に言及がないのは論外だ。こうした人が防衛トップだったのは、やはり政治的に大きな問題だろう。彼はきょうの外交防衛委でどう語ろうが、ヘミングウェイがこう言う。「いかに正当化されようと、戦争が犯罪ではないと考えてはならない」</description>
      <pubDate>Tue, 11 Nov 2008 09:53:26 +0900</pubDate>
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      <title>2008年11月8日</title>
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      <description>　▼読書の秋である。岡崎大五著の「日本は世界で第何位？」(2007年、新潮社)を読んだ。日本は世界でどういう位置にあるのか。どんな国だと言えるのか。正確に世界の中で見つめることが必要だとし、書かれた本だ。日本は小さいと言うが、実は、国土面積の順位は世界193カ国の中で62位。日本がヨーロッパ(ロシア、東欧含む)にあったとしたなら、そこでは7位…。そんなデータが盛り沢山だ。　▼日本は意外と小さくないのだが、ほかの面はどうか。日本の1人当たり国民総所得は、世界5位。物価の高さは、東京1位。マンション価格の高さは、東京7位。タクシー運賃の高さは、日本3位…。経済以外では軍事費は日本4位、交通事故死者の多さ10位、自殺者の多さ10位(男)、ごみ排出の多さ3位…。また、平等の国順位というのがあり、日本2位。腐敗度は163位…。データは05―06年のもの。今は多少違っているかもしれないが、日本は住みよい国なのか、よくないか。　▼以下のデータは、日本を動かす政府の姿も見させる。外国人旅行者の多さは、日本31位。それを根拠に観光庁がつくられた。ガソリン価格の高さは、17位。揮発油税騒動のとき、ガソリン価格はまだ高くていい―を唱えた。たばこ価格は、17位。上位にならう1000円化を検討する。都合良いものは都合良く持ち出す。穀物自給率、123位。建設業の産業構成比、1位…。建設業の多さは重要性を示すものでもあるが、そういう問題や存在は軽視だ。日本はよい国なのか、よくないか。</description>
      <pubDate>Sat, 08 Nov 2008 10:00:00 +0900</pubDate>
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