道東の浜中町は、道内屈指の酪農の町です。1981年、浜中町農協は、酪農技術センターを設立。牧草地の土壌や牧草の成分、牛の健康状況などを科学的見地から分析できる全国に先駆けた研究施設でした。以来、乳牛の生育環境にまで及ぶ徹底した品質管理により、生乳の質は、アイスクリームのナショナルブランド「ハーゲンダッツジャパン」の原料にも指定されるほどの高い評価を確立。蓄積された分析データを基に、国内で初めて生乳のトレーサビリティも導入しました。新規就農希望者の研修牧場の開設にもいち早く着手。昨年には、「株式会社酪農王国」を創業し、地元企業との共同出資による新たな牧場経営にも乗り出しました。「酪農」を核にした先駆の取り組みで、地域の未来を模索する石橋さんにお話を伺いました。
地方の疲弊が憂慮され、なかなか活路を見出せない農村地域も多い中、浜中町農協は、ちゅうちょせず新規事業に挑み続けています。その原動力は何だと思われますか。
石橋 浜中町の冷涼な気候は農業に適せず、農村には、牛と牛乳以外、販売作物がありません。それならば、やれることは何でもやって、酪農専業の農協として、日本一と言われる生乳を生産しようと奮いました。かつての生産体制では、酪農家それぞれの勘や経験に頼ることが多く、生乳の質もまちまち。牛乳のレベルアップを図るには、各牧場の乳質を高い水準で均一にする必要があると考えました。
そんな中、アメリカで酪農研修を積んだ町の若者たちが帰国し、乳牛に良質な餌を与えるために、高精度の分析システムを備えた専用のラボで、牧草地の土壌分析まで行っている、と言うんです。なるほど、良質な生乳の生産には、乳牛の生育環境への配慮も不可欠。しかも、調査データなどの客観的数値を基に環境が整えられるのであれば、酪農家の経験は大きく問われません。この普遍で先進的な手法を、是非取り入れたいと思いました。
とはいえ、前例の無い事業。酪農技術センターの設立資金で道庁に掛け合っても、最初はけんもほろろ。2年間、何度も足を運んで、ようやく始動しました。研修牧場開設を決める総会では、2度の否決後やっとの可決。酪農王国設立の提案にも、賛否の大議論が起きました。
しかしこれこそ、提議した甲斐があるというもの。議題に対していろいろな人が発言することで、さまざまな角度で検討することができ、そもそも私たちはどんな問題を解決しようとしているのか、皆心一つにしてことに臨めます。発案した私も、徐々にやりたいことが煮詰まってくるわけです。
画期的な酪農施策によって、浜中町の様子は変わりましたか。
石橋 酪農家たちの姿勢が変わりました。浜中町の生乳の品質レベルは、最高の水準にあるとの自負を持って、日々生産に取り組んでいます。研修牧場の卒業生も増え、身内に後継者がいなくても、家督以外で事業継承できるようになり、離農者の表情から悲壮感が消えました。
離農地といえば、「草ぼうぼうですっかり傾いた」というイメージがありますが、やめると宣言した人たちは、牛舎にしても、家にしても、継承者に少しでも高値で買ってもらおうと、最後まで手入れを怠っていませんよ。それに、研修牧場に志願するほとんどが、酪農がしたくて仕方ない人ばかり。
それまで365日休み無く働く両親の辛苦を見て育った酪農家の子供たちも、彼らの喜々とした姿を目の当たりにし、じゃあ、自分もやってみるか、と。後継者の意識までも変わってしまったんですね。現在、後継者の定着率は7割以上。極めて高い割合だと思います。
酪農王国は、異業種の法人でも酪農に新規参入しやすい仕組みづくりを目指した起業だと伺っています。石橋さんが、思い描く未来図とは。
石橋 浜中町も高齢化が進んでいます。生産法人の設立は、離農の更なる増加が予想される中、酪農参画の間口を広げるためでした。既に農協以外の出資企業9社のうち3社から社員を派遣したいとの申し出があり、今後私たちのノウハウで、別の生産法人が生まれることも期待されます。
酪農は、町の生産基盤。連関性の高い産業ですから、酪農家以外にも、酪農にかかわる仕事に携わっている人は町にたくさんいるんです。縮小の時代こそ「相互扶助」を生かす時。協同組合の精神そのものです。私たちを「異端」と呼ぶ人もいますが、私は「異端の正統」だと言っています。
少ないパイを皆で分け合い、それを少しずつでも大きくしていくという視点がまちづくりには必要ではないでしょうか。物質的に豊かではなくても、誰もが心豊かに生活できる地域づくり。それが、純農業地帯の農協の役割だと思っています。
取材を終えて
心意気に浜中町の底力
石橋さんは、32歳で農協の理事に就任。石橋さんの資質を見込んだ当時の酪農振興会長の熱心な勧めと期待に応えてのことでした。「町の将来を次の世代に託すのも、私の大事な役目」と話す石橋さん。人から人へ継がれてきた地域づくりの心意気に、浜中町の底力を感じました。