2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災。間もなく5年が経過する。家族や親類、同僚、友人をはじめ、住宅や職場を失った被災者の喪失感と絶望感は想像を絶する。しかし、悲観に暮れるばかりでなく、前向きに力強く生きようとする人々の姿もある。
「あれだけの数の従業員がよく集まってくれたと思う。中には家族の安否が不明な従業員もいたが、応急復旧に全力を尽くしてくれた」。深松組(本社・仙台)の深松努社長が当時を振り返る。
がれきの山と化した市街地で、支援物資や人員を乗せた緊急車両が通る道路を、従業員を引き連れて切り開いた。余震が度重なり、いつまた大きな津波に襲われるかもしれない恐怖と戦った。
同社が加盟する東北建設業協会連合会は、東北地方整備局と結んだ災害協定で、震度5弱以上が発生した場合、担当区間を2時間以内に回り、被災状況を点検して報告する取り決めがある。
当日午後6時には、作業員を現場に向かわせた。深松社長は「泥まみれの遺体が地中から出るたび、従業員はかわいそうだと泣きながらがれきを撤去した。夢に出てきて眠れないと訴える者もいた」と明かす。想像を絶する現場で全員がろくに食事を取らず、十分に体を休める暇もなく昼夜を通して作業に当たった。
発生から10日後、北海道建設業協会が救援物資を岩手県に届けた。灯油や軽油を積載したタンクローリーと、トイレットペーパーや粉ミルクを載せたトラックで被災地を回り、住民の苦労をねぎらった。
救援隊長を務めた空知建設業協会の砂子邦弘副会長(当時)は「岩手の企業には知り合いも多く、北海道で働いている協力会社の中には岩手の人もいる。かつてない災害で微々たる援助だが、少しでも被災地の役に立てれば」と話した。
長引く停電をはじめ、ガソリンや暖房の燃料、食料不足に悩まされる中、1カ月後には「くしの歯作戦」で道路42区間を開通させ、その功績は新聞やテレビで大々的に報じられた。
当時、BCP(事業継続計画)はさほど普及していなかったため、建設業者の機動力に驚く。東北建設業青年会の舩山克也会長は「『震度5弱以上で会社に集合する』『施主を巡回する』『災害協定で駆け付ける』の3つがあれば十分。これらをこなす日常の訓練が有効だ」と道内建設業者に助言した。
「自分の古里は自分で守る」(深松社長)。気概を持って臨んだ復興工事だったが、その道のりは苦難の連続の始まりでもあった。
(2016年3月4日掲載)