アイヌの人々を敬愛した旅人
これまで何度かカヌーで天塩川下りをしたが、音威子府の筬島付近で河道がほぼ直角に方向転換する位置に「北海道命名之地」と墨書された丸太が屹立している。ここが北海道という地名が誕生する契機となった場所で、北海道命名150年の現在では有名な逸話であるが、経緯を簡単に紹介する。
北海道が蝦夷地といわれていた江戸末期、この土地を6回探検した松浦武四郎が1857年、探検の途中で付近のアイヌの集落を訪問し、各地で自分がアイヌの人々から「カイナー」と挨拶される意味を質問したところ、古老が「カイ」は「この土地に誕生した人間」、「ナー」は尊称ということであった。
それから12年、1869年に政府の開拓判官となった武四郎は「カイ」と北方を意味する「北」、領土を意味する「道」を組み合わせ、「北加伊道」を蝦夷地の新名とすることを提案し、それが「北海道」の名称の根拠になったとされる。武四郎がアイヌの人々を敬愛していたことを示唆する逸話である。
松浦武四郎は1818年に伊勢国須川村(三重県松阪市)の郷士松浦圭介の四男として誕生した。生家は現存するが、伊勢神宮参詣の人々が通過する伊勢街道の沿道にあり、とりわけ武四郎が13歳の1830年には「文政のお蔭参り」が発生し、全国からの約430万人が眼前を通過していった。
この環境が生涯の旅人とでも表現できる武四郎の人生に影響しており、まず17歳のときに西方に旅立つが、26歳のとき長崎で蝦夷地が外国の脅威に直面しているとの情報を入手して一気に方向転換し、翌年、一般の人々の渡航が許可されていなかった蝦夷地に上陸することに成功する。
この1845年の初回では渡島半島から蝦夷地の南岸を陸路と海路を利用して知床半島の先端に到達、翌年の探検では西岸を北上して稚内を経由して樺太にまで到達、さらに宗谷から東岸を陸路と海路で往復して蝦夷地を一周している。1849年の3度目の探検では国後にも上陸している。
これまでの3度の活動を幕府が注目し、1855年に蝦夷御用御雇に抜擢され、さらに3度の探検を追加し、1859年に「東西蝦夷山川地理取調図」を完成させている。これはほぼ縮尺20分の1の蝦夷全図であり、山脈、河川、湖沼などの地形とともに、アイヌの人々から聴取した大量の地名が記載されている。
武四郎は探検家でもあるが記録家でもあり、生涯に150冊の旅行記録を刊行している。一部は誇張した表現のため正確ではない部分もあるが、探検の様子を文章、地図、絵図、さらには「蝦夷漫画」と名付けられた略画としても刊行し、ほとんど未踏であった蝦夷地の貴重な記録となっている。
さらなる特徴は正義を貫徹したことである。探検の途上で目撃した松前藩の役人のアイヌ民族への不当な処遇を摘発したため刺客に追跡され、しばらく江戸の水戸屋敷に閉居する事態も経験しているし、開拓判官を8カ月で辞任したのも、明治政府のアイヌ民族への処遇に納得できなかったためである。
三重の三大偉人は松尾芭蕉、本居宣長、松浦武四郎とされるが、芭蕉、宣長と比較して武四郎の名前は有名ではない。最近でこそ北海道命名150年で注目されはじめているが、江戸末期に未開の土地であった蝦夷地の地理と社会について詳細な実態を記録した功績は顕彰されるべきである。