幕末の日露紛争を解決した商人
ユーラシア大陸の東端に位置する島国日本は、遣隋使、遣唐使の時代から海外と活発に交流する国家であった。しかし、18世紀になると、鎖国していた日本にロシアの軍艦などが到来しはじめ、蝦夷地を管理していた松前藩は1759年に交易拠点の国後場所を設定、防御を強化する。
しかし1792年にはロシアのA・ラクスマンが遣日使節として根室に到来し通商を要求、1804年にはN・レザノフが長崎に来航して同様に通商を要求、さらに1806年にはN・フヴォストフが択捉島に上陸して略奪や放火をしたため、幕府は「ロシア船打払令」を発令し強硬な対策を開始した。
このような緊迫した状況の1811年に発生したのが「ゴロウニン事件」である。千島列島周辺を測量していたロシアの軍艦ディアナが国後島の泊湾に入港したところ、厳戒態勢にあった国後陣屋の役人に艦長のV・M・ゴロウニンらが逮捕され、松前に移送されて入牢となった事件である。
この国際問題の解決に尽力したのが高田屋嘉兵衛である。1769年、淡路島の農家の6人兄弟の長男として誕生し、地元で漁業や商売を手伝っていたが、28歳になった1796年に1500石積の当時としては超大型船「辰悦丸」を入手し、箱館を拠点にして蝦夷地との交易を開始し、成功する。
嘉兵衛は地域にも多大の貢献をしている。箱館の開墾計画に呼応して故郷から農民を入植させ、淡路から運搬した稚貝を湾内で養殖する。この精神を最大に発揮したのが1806年の箱館大火のときである。類焼した町民に食料や衣類を提供し、日用雑貨を大坂から輸送して原価で放出したのである。
この順風満帆であった嘉兵衛に突然の災難が襲来する。1812年9月に択捉から箱館への帰路、乗船していた「観世丸」が国後島沖でロシアの軍艦ディアナに拿捕(だほ)されたのである。ゴロウニンが松前で幽囚されている状況を入手するため、副官のP・I・リコルドが待ち伏せしていたのである。
豪胆にも嘉兵衛はリコルドとともにカムチャッカに同行、解決の方策を相談する。幕府は1806年のフヴォストフの蛮行に立腹しているが、それはロシア皇帝の命令によるものではないということを証明して謝罪すれば、ゴロウニンは釈放されるというのが嘉兵衛の見解であった。
そこでリコルドが謝罪文書を作成し、1813年5月にカムチャッカを出航し、国後陣屋で経緯を説明する。交渉は難航するが何度かの交渉により幕府が要求する文書を用意して手渡した結果、松前奉行はリコルドの持参した書簡を受領し、ゴロウニンは釈放されて事件は一件落着となった。
リコルドは「事件の解決には教養と度量のある高田屋嘉兵衛が貢献し、日本高官との最初と最後の交渉が実現した」と回想している。高田屋嘉兵衛生誕230年の1999年にゴロウニンとリコルドの子孫が来日して嘉兵衛の子孫に再会し、それを記念して函館市内には「日露友好の碑」が建立されている。
嘉兵衛の活動も影響し、1858年の日米修好通商条約締結の翌年、箱館は横浜、長崎とともに開港され、現在の発展の基礎が形成された。『菜の花の沖』で嘉兵衛の生涯を紹介した司馬遼太郎は淡路島洲本市での講演で「英知と良心と勇気を尺度とすれば、江戸時代で最大の偉人は高田屋嘉兵衛であろう」と絶賛している。