ビザなし交流は、奇妙な体験の連続だった。
「今から入域手続きが始まります」
5月24日午後、交流専用船「えとぴりか」内。根室出港から6時間が過ぎたころに放送が流れ、参加者は食堂前ロビーに集まった。このとき船は色丹ではなく、隣の国後島沖にいた。
はしけ船で少し前に乗り込んできたロシアの入国審査関係者が何人か立っている。団員は一人一人名前を呼ばれ、審査官の正面に行く。審査官の手に、出発前に提出したパスポートのコピーが見える。本人確認目的の、顔写真の照合だった。
色丹島に直行できないのは、同島に入国管理拠点がないからだ。団員がパスポートもビザも持たないのは事実だが、ロシア側は事前提出された情報を基に、国後で事実上の入国手続きを課す。日本側はこれを「入域」と呼ぶ。
帰路も同じだ。色丹から国後に寄り「出域」手続きをする。ロシア側が主張する海上の国境ラインは、日本側では「中間ライン」となる。独特の解釈を加えながら、訪問団は終始ロシアのルールに沿って行動した。
ビザなし交流はソ連崩壊直後の1992年に始まった。住民親善を通して、日ロ平和条約を結ぶための良好な雰囲気をつくるのが目的だ。領土返還運動の一環であり、費用は全て日本側が公金で負担する。例えば島の家庭訪問で日本人が受けるもてなしの準備費用も、日本の税金から来る。
こちらから行くだけでなく、ロシア人島民を日本に招待する事業も日本負担で続けている。隣人の社会や文化を学ぶ研修という名目だが、実質無料の観光・買い物旅行だとの指摘は絶えない。
25日、観光をテーマにした色丹での意見交換会では、初老のロシア人女性が「過去に何度も訪日した。北海道も東京も良かったが広島が気に入った」と話した。
筆者の印象では、島で出会うロシア人は、以前から家庭訪問受け入れなどで日本側に協力してきた人が多い。協力者は優先的に日本に招待されるとの話も聞こえてくる。ビザなし交流は、島に日本シンパを確保する手段という側面がある。
島に渡る日本側メンバーは、元島民と親族、公務員や政治家を含む返還運動関係者、また一部の学者や専門家で構成する。主役はもちろん元島民だが、参加は減少傾向だ。今回の訪問団で色丹の元島民は根室在住の石井守さん(75)1人だけ。「亡くなった元島民も多く、存命でももう船旅に耐える体力がないからと辞退する人が増えた」と明かす。
交流船内では毎便、元島民が体験談を語る講話の時間を設ける。今回は講師役を、志発島(歯舞群島)元島民2世である札幌在住の教諭、佐藤みゆきさん(55)が務めた。領土返還そのものに加え、返還運動をどう引き継ぐかも喫緊の課題となる。
停滞を打開しようと、島への新しい関わり方として今日本政府が提唱するのが、共同経済活動だ。日本企業は島に関わるべきか。団員に尋ねた。釧路青年会議所の小向秀明さん(35)は「やるべきだと現地で感じた。まずごみ処理など環境事業がふさわしいのでは」と前向きだ。設備工事の奥村工業(中標津)に勤める奥村太揮さん(27)も「当社の管工事の技術を生かせたら」と話す。一方、2世の佐藤さんは「元島民すら自由に行き来できない中、ビジネスマンが出入りするのは抵抗感がある」と率直に語った。
元島民、現島民、企業、政府、それぞれの立場やジレンマを乗せ、ビザなし交流船は28年目の運航を続けている。