高い安全意識、社員間にも浸透
赤帽子(本社・札幌)は、1892(明治25)年創業の老舗看板業者だ。道内看板業界のパイオニアとしての経験とノウハウが強みで、提案力と製作力、施工力をバランスよく持ち合わせている。4代目社長の原田和夫さんは「お客さんの要望に応え、時には専門業者として提案してきたことで、長く事業を続けることができた。これからも〝お客様第一主義〟をテーマに頑張りたい」と話す。
江戸生まれの原田文治郎によって創業。東京から札幌に渡り、店舗を中央区北1条西4丁目に構える。文治郎は音楽活動家としても有名で、明治30年代に人気だった赤帽子音楽隊の創設者でもある。社名の赤帽子は、文治郎がいつも赤い帽子をかぶっていたことが由来だ。
1909年に長男の大耶幔(だいやまん)氏が2代目に就く。ハイカラな文治郎は元々「だいやもんど」と名付ける予定だったが、役所に取り入ってもらえず、やむを得ず大耶幔の名前を付けたという。
30年に文治郎五男の原田貫一氏が3代目に就任する。戦中戦後で子宝に恵まれず、和夫さんは貫一氏の長男だが、上の兄を病気などで失っていて戸籍上では五男に当たる。このため海水浴やバイクの運転が許されないなど、とにかく大切に育てられたという。
71年に法人化し「株式会社赤帽子」を設立した。73年は社屋と工場を東区に設け、75年には資本金を250万円に増資。日本の高度経済成長を背景に、会社もどんどん大きくなった。
81年に貫一氏が逝去し、和夫さんが4代目に就任する。37歳の若さで歴史ある看板会社のかじ取りを任される。創業100周年に当たる92年に資本金1000万円に増資。社屋を現在の白石区米里3条3丁目に移し、工場や設備を拡張した。あれこれ抑えられていた子どもの頃の反動で、大型二輪のハーレーにも乗るようになった。
「おやじから〝看板屋をやれ〟と言われていたものの、めっきり書くのは駄目だった」と明かす。同僚が新婚旅行で休暇を取り、急きょ任された小樽の生コン工場では、筆でセメントサイロに会社名を書かなけねばならず、大変苦労したという。
市民会館の仕事をしていた20代の頃、木製はしごが崩れて高さ7mから落下し、50代の時に後遺症で脊髄や頸椎(けいつい)の大手術をした。それゆえ現場の安全管理には厳しい。業界では珍しい安全パトロール車を自社で用意し、社員間の意識付けに努めている。
突き出しから壁面、屋上、サインポール、LEDサインなど、あらゆる屋上看板を手掛ける。モニュメントや内装グラフィックも得意で、最近は建築金物の取り付けを任されることもある。赤帽子ゆえに、赤色のヘルメットがトレードマークだ。
「老朽化した看板の落下事故が起きてから設置を好まない建物が多くなった。僕らとしては寂しい」とこぼす。「創業130年までは社長として頑張りたい」と話し、後継者へのバトンタッチも視野に入れている。