砂利採取業の経営資源生かす
ヤマシメ桑田海運(本社・天塩)は、良質な天塩産の砂を採取し、生コン用細骨材として利尻・礼文をはじめ道内各地の生コン工場に供給する会社。もともとは木材運搬を仕事としたが、時代の移り変わりとともにニシンや土木資材など扱う製品を変えていった。桑田幸治社長は「高齢化や担い手不足など地域の困りごとを解決しながら天塩の地の利を生かし、これからも道内経済の発展に向けて頑張りたい」と話す。
創業者の桑田武さんが天塩川流域の住民に向けて商売した薪(まき)や丸太などの木材運搬をルーツとする。武さんは1933年に樺太へ渡って製紙会社の原木運搬を担うが、太平洋戦争の終戦目前で天塩に戻り、持ち帰った船2隻でニシン漁を始める。
資源の枯渇でニシンが捕れなくなった50年ころから、土木用の石や砂を利尻や礼文に運ぶようになり、現在の礎ができる。68年に法人化し「ヤマシメ桑田海運株式会社」が誕生する。
現在の幸治社長は3代目で、2020年に父の憲治さんから会社を引き継いだ。1978年4月生まれの44歳。小中学校と野球に汗を流したが、けがに泣き、高校はPL学園の応援執行部に在籍し、最後は部長として甲子園のアルプススタンドに立った。その後は新潟産業大に進学。卒業後はLPガス製造・販売の日商プロパン石油に入社する。
9年ほど務めた後、実家の天塩に戻ることを決意する。最初は兄が経営するアサヒ飲料(本社・天塩)でご当地ドリンクのマスカットサイダーを販売して回ったが、将来の事業承継を視野に13年にヤマシメ桑田海運へ入社する。
町内の農地や林地から砂や砂利を採取し、天塩港そばの洗浄プラントで生コン用の細骨材や粗骨材として整えた後、砂利運搬船で利尻・礼文のほか道内各港へ運搬する。天塩港は天塩川から流れ込む砂の影響で、砂利運搬船や漁船が座礁しそうな危険を抱えていたが、町や留萌開建留萌港湾事務所の取り組みが奏功し、航路維持に向けた浚渫工事が年2回進められるようになった。
浚渫工事で集まった砂は北海道開発局の土砂バンクに登録し、天塩や幌延の砂利採取地で「埋め戻し材」として再利用される。地域の厄介者が経済循環の中で再利用される好事例といえるだろう。
「道内各地で砂や砂利の資源枯渇が懸念されるが、天塩や幌延は当面安定供給できそう」と幸治社長。一方で少子高齢化や担い手不足は地域に影を落とし、「人員や車両など砂利採取業の経営資源を生かし、地域の困りごとを解決するような取り組みも検討したい」と話す。
社員とその家族、取引先、地域社会の三方への貢献を使命とする。「天塩で営み始め、近隣の利尻・礼文を含めて地域に75年以上支えられてきた。これからも天塩を起点に、北海道のインフラ整備に貢献できるよう頑張りたい」と話している。