始まりは一人の函館市議の理念から 共通意識形成へ声を広げよう
青函トンネルの建設で青森県内にはどのような影響があったのか。青森県外ケ浜町にある青函トンネル記念館の工藤幸治館長は「工事の最中は景気も良かった。実家の商店にはいつも作業員が来てくれた」と振り返る。
施工費は「当時の金額で6890億円ほど」といわれる青函トンネル。経済効果は地域に広く行き届いた。1964年に掘削を開始し、85年に貫通。88年に供用開始した。
青森県旧三厩村で生まれ育った工藤館長は、青函トンネル建設によるまちの移り変わりをじかに見てきた。「作業拠点の三厩村にあるたばこ屋が、当時日本一売れている店だという話もあった」
作業員の羽振りは良く「70㌔くらい先にある青森市内まで毎晩タクシーで飲みに行く人が大勢いた」と回想する。
工事には延べ約1370万人が携わった。これは当時の東北6県の人口の2倍に相当するという。最大で同時期に2000人ほどが従事。「青森県が一番にぎわっていた、活気があった時期だったことは間違いない」と強調する。国家プロジェクトだけに町に与えた影響は大きい。
しかし、こうした好影響は「工事が完了するまでだった」と話す。工藤館長は高校進学を機に村外へ移り、28歳の時に戻ったが、寂れ具合を肌で感じた。工事関係者は大半が村外、県外から来た。このため、開通後に村に残ったトンネルマンはほぼいなかった。「こうした記念館ができたことくらいが、今も残る経済効果だ」という。
そもそも青函トンネルを造るきっかけは何だったのか。工藤館長は一人の名を挙げる。「阿部覚治という函館市議が23年に記した大函館論に、初めて道と本州を結ぶ海底トンネルの理念が提唱された。その意見が議会に広がり、それが年を追うごとに道、国と波及していった」
その後に起きた洞爺丸事故が最終的な決め手となり、着工の可能性を探るべく46年に地質調査が始まった。
工藤館長は、第二青函トンネル実現に向けた鍵は「事業に関わる全ての人が一致した共通意識を持つことでは」とみる。阿部市議のように小さいところから声を広げることも「実現には欠かせないと思う」と話す。