海峡をつなぐ第二青函トンネル実現の道筋は

 北海道新幹線の開通から間もなく7年を迎えようという中、第二青函トンネルの整備を求める声が少しずつ広がりを見せている。札幌延伸を控える新幹線がその性能を十分に発揮できるようにするとともに、自動車による物流、観光の促進へ期待がかかる。青函トンネル開通から35年の節目となる2023年を迎えるにあたり、実現への道筋について青函双方のキーパーソンに見解を尋ねた。(4回連載します)

海峡をつなぐ 第二青函トンネル実現の道筋は(2)青函トンネル記念館館長(青森県外ケ浜町) 工藤幸治氏

2022年12月15日 10時00分

始まりは一人の函館市議の理念から 共通意識形成へ声を広げよう

 青函トンネルの建設で青森県内にはどのような影響があったのか。青森県外ケ浜町にある青函トンネル記念館の工藤幸治館長は「工事の最中は景気も良かった。実家の商店にはいつも作業員が来てくれた」と振り返る。

 施工費は「当時の金額で6890億円ほど」といわれる青函トンネル。経済効果は地域に広く行き届いた。1964年に掘削を開始し、85年に貫通。88年に供用開始した。

 青森県旧三厩村で生まれ育った工藤館長は、青函トンネル建設によるまちの移り変わりをじかに見てきた。「作業拠点の三厩村にあるたばこ屋が、当時日本一売れている店だという話もあった」

工藤幸治館長

 作業員の羽振りは良く「70㌔くらい先にある青森市内まで毎晩タクシーで飲みに行く人が大勢いた」と回想する。

 工事には延べ約1370万人が携わった。これは当時の東北6県の人口の2倍に相当するという。最大で同時期に2000人ほどが従事。「青森県が一番にぎわっていた、活気があった時期だったことは間違いない」と強調する。国家プロジェクトだけに町に与えた影響は大きい。

 しかし、こうした好影響は「工事が完了するまでだった」と話す。工藤館長は高校進学を機に村外へ移り、28歳の時に戻ったが、寂れ具合を肌で感じた。工事関係者は大半が村外、県外から来た。このため、開通後に村に残ったトンネルマンはほぼいなかった。「こうした記念館ができたことくらいが、今も残る経済効果だ」という。

 そもそも青函トンネルを造るきっかけは何だったのか。工藤館長は一人の名を挙げる。「阿部覚治という函館市議が23年に記した大函館論に、初めて道と本州を結ぶ海底トンネルの理念が提唱された。その意見が議会に広がり、それが年を追うごとに道、国と波及していった」

 その後に起きた洞爺丸事故が最終的な決め手となり、着工の可能性を探るべく46年に地質調査が始まった。

 工藤館長は、第二青函トンネル実現に向けた鍵は「事業に関わる全ての人が一致した共通意識を持つことでは」とみる。阿部市議のように小さいところから声を広げることも「実現には欠かせないと思う」と話す。

 工藤幸治(くどう・こうじ)1965年9月3日、青森県三厩村(現外ケ浜町)生まれ。2017年度から現職。

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(この連載は函館支社・鳴海太輔、鈴木楽、舛岡雄介記者が担当しました)

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