石狩―留萌をつなぐ増毛山道と濃昼(ごきびる)山道は江戸時代後期、帝政ロシアに対する北方警備のため箱館奉行所の命令でニシン漁を行う場所請負人が私費で開削した。北海道の名付け親である松浦武四郎が「蝦夷地第一の出来栄え」と評した希少な山道でもある。
厳しくも豊かな自然条件に人々の努力と感性が加わり育まれた旭川家具。良質な木材を暮らしに寄り添う美しいデザインで仕上げる技術・技能は1世紀に及ぶ挑戦の積み重ねだ。明治中期の師団建設と鉄道開通で芽吹き、凶作に負けない新たな産業として時々の官民リーダーが先導。積極的な国内外への技能者派遣や見本市参加は言葉の壁を越えたデザイン性に結実した。
4万年前、支笏湖を形成した火山活動での火砕流が固まった岩石である札幌軟石。加工しやすく、防火性に優れた特性から、開拓使が廉価な不燃建材として広く使用した。明治中期から大正時代にかけて札幌、小樽などで倉庫や建築物に盛んに使われ、身近なところでは札幌市資料館の外壁に採用されている。
明治時代、道内には樺戸を皮切りに空知と釧路、網走、十勝に集治監が建てられた。政府が士族蜂起による懲役囚の急増に苦慮していたためだ。囚人は鉱山の開発や道路の開削、橋梁工事などの外役に従事し、道路や鉄道をはじめ、未開拓地の多かった北海道の開拓に大きく関わった。