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【新年特集2025】南稚内駅前・オレンジ通商店街今昔物語

JR南稚内駅前に広がるオレンジ通商店街。戦後の樺太(現サハリン)からの引揚者流入などによる南地区の発展とともに生まれ、住民生活の屋台骨として親しまれてきた繁華街だ。やがて大型店進出と共に市内随一の飲み屋街へ変貌を遂げたが、近年は苦境が続く。現状打破の一策として、駅前に残る旧稚内海員会館の再開発に期待がかかる。


商店街から稚内随一の歓楽街に

オレンジ通商店街が広がる大黒地区や住宅が立ち並ぶ緑地区が栄えるのは終戦後のこと。樺太からの引揚者が南地区へ流入したことで住宅需要が増加し、農地の宅地化や海岸埋め立てといった開発が進んだ。

1952年に南稚内駅が現在地に移転したことを機に周辺で事業を始める店が出始め、次第に商店街を形成。南稚内商店会を経て1977年に現在のオレンジ通商店街振興組合が発足した。

2024年5月に理事長となった本山哲司氏は1974年生まれ。社長を務める谷金物商事は1954年の創業時からオレンジ通に店を構える。

商店街の活性化を目指す、本山理事長

創業時の市の中心は、JR稚内駅や市役所がある中央地区だった。市民はアーケード商店街や繁華街の仲通りへ足を運ぶことが多く、オレンジ通商店街は南地区の住民が通う小さな商店街だった。スーパーや衣料品、玩具店、雑貨屋が立ち並び、「飲食店は少なく一般的な商店街だった」と振り返る。

1990年代に入り状況は一変する。車社会の浸透に伴い1990年に大型複合商業施設が南地区へ移転。近くに大型複合商業施設ができたことで、オレンジ通の商店主らは新しい経営の在り方を迫られた。

郊外の栄地区では宅地造成が活発化。国道沿いに大型店舗が次々と出現し、市の中心は南地区へ移り始める。オレンジ通のテナントには飲食店が入り、新しい飲食店ビルが建つなど歓楽街化が進んだ。

「一時的に離れていた稚内に戻ると、あまりの変貌ぶりに驚いた」と本山理事長。2002年の中央地区での大火で仲通が大打撃を受けると、オレンジ通は市最大の歓楽街として客足が伸びるようになった。

コロナで常連客激減、立て直しへ

歓楽街に生まれ変わったオレンジ通商店街だが、取り巻く環境は厳しい。個人経営の飲食店では担い手不足が深刻化。人手が足らず、席が空いていても入店を断らざるを得ない店が出ているという。

新型コロナウイルス感染症の拡大による活動自粛により、特に高齢の常連客が激減した。本山理事長は「冬場の平日だと人通りが少なくなった」と嘆く。ある建設業者は「会合後に商店街で飲み歩くことはほとんどなくなった。あっても1次会まで」と話す。生活様式の変化が商店街に深刻な打撃を与えている。

振興組合の会員は16人に減少。会員数増加を目指し、規約を見直して加入条件の緩和を図っている。毎年8月に稚内南神社例大祭やビアガーデンなどを催しているが、収支の見直しや改善点などを洗い出して適正な規模を探る考えだ。

海員会館再開発と活性化に期待

オレンジ通活性化の切り札として本山理事長が期待するのは、南稚内駅前にある旧稚内海員会館の再開発だ。1977年に水産業者の福利厚生を目的に開館。格安で泊まれる宿泊施設のほか、数百人規模で開催できるイベントホールなどの機能を備えていた。地域住民の結婚式と言えば「海員会館だった」。

しかし、1990年代に中央地区に大型ホテルが完成すると、次第に利用客は減少。施設の老朽化により2019年8月に閉鎖された。

閉館から5年。劣化は深刻で廃虚化が進む。周囲には他にも取り壊されず劣化が深刻なホテルがあり、駅前の景観が損なわれている状況だ。

廃虚化が進む稚内海員会館

稚内商工会議所も海員会館の動向を注目している。2024年に駅周辺のにぎわい創出に向けた主要要望として、所有者の稚内市に早期解体を求め、数百人を収容できるコンベンション機能や市民が交流できる複合施設の新築を提案した。

「大型ホールだけでなく、保育施設なども導入すれば、送り迎えの途中で買い物をするなど、波及効果は高いのでは」。海員会館に代わる施設が建つことで、人の流れが商店街に向かうようになることを本山理事長は期待する。

解体費の高騰など再開発には課題が多いが、「時間が経過するほど取り壊す費用は高くなる。まずは早期解体を」と動向を注視している。


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