見出し画像

【北の民俗文化】第26回(最終回)「マリモに寄せる思い」広い集団への帰属性に移行

私は60数年前、大学2年のとき、学友5人とテントを携え、鉄道やバスを乗り継いで、襟裳岬を通り、道東地方を旅行したことがあります。屈斜路湖湖畔砂湯でテント野営し、美幌峠からの広大な光景や摩周湖の神秘性などに魅了されたことを思い出します。その時、阿寒湖のマリモを見ました。繁殖地の景観とともにその荘厳さに心を奪われたことを思い出します。そのマリモについて当時歌謡曲にも歌われていましたから、旅の情緒をさらに感じさせられたことを思い出します。

現在、北海道新聞2024年7月22日付「マリモ縮む生息域 阿寒湖26年間で4割減」という記事を見て、「阿寒湖マリモの伝説」(『北海道の伝説』更科源蔵・渡辺茂編著、国有鉄道旭川地方営業事務所、昭和27年)を改めて読み直しました。紹介します。

昔阿寒湖に菱の実(ベカンベ)があったが、阿寒湖の神様はそれを喜ばず邪魔にしていた。然しベカンベは何とかして神様の機嫌をとろうと努力をし、「私達は出来るだけ仲間を多くしたいと思いますから、どうかいつまでもこの湖に置いて下さい」とお願いをしたところ、にがりきった顔をした神様は、「お前達を湖に置くとどうも湖が汚くなっていけない。それにお前達がいると、お前達をとるために人間が多くなって、一層湖が乱れるから置くことは出来ない」と折角のベカンベの願いはにべもなく神様に断られてしまった。我慢をつづけてきたベカンベも、ついにこの神様の冷酷な言葉に憤慨して、あたりにあった藻をむしってまるめて湖に投げ入れてここを去ってしまった。そのベカンベにむしられて投げ込まれた藻が現在のマリモになったというのである。(山本多助著「阿寒の伝説」屈斜路湖、弟子乾次老伝・近藤直人氏輯)

世上一般に知られている「恋マリモの伝説」は近世の創作であって、古くからあったものではない。

特に「恋マリモの伝説」については、大正10年代から、青木純二、工藤梅次郎、河合裸石諸氏のアイヌのメノコと若者の添い遂げられる恋が湖のマリモとなったという伝説が創作されました。阿寒湖のマリモは、強風が吹くと湖に発生する波で光合成し、丸く育つと言われています。直径15センチ以上の大型球状マリモが生育するのは世界で阿寒湖だけとも言われていますから、マリモに対する思いは一層かきたてられます。現在も生育には不明の点が多いといいます。その原因究明と保護対策が急がれています。(参考・北海道新聞24年7月22日付1面)

煎本孝氏は「まりも祭りの創造―アイヌの帰属性と民族的共生―」(『民族学研究66―3』日本民族学会、2001)のなかで①アイヌの民族性の最も深い部分にある精神性の演出により、新しいアイヌ文化の創造が行われていること②この祭りの創造と実行を通して民族的な共生関係が形成され、それが維持されていること③そこでは、アイヌとしての民族的帰属性が、アイヌと和人を含むより広い集団への帰属性に移行していること、が明らかになったと論じています、この視点から現在、マリモ観とその祭り、創作伝説を考えたいと思っています。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

当コラムを担当した阿部敏夫氏は2024年10月1日に亡くなられました。北海道の民俗、文化に関する豊富な知見から多くの話題を提供いただきました。安らかにお眠りいただくことを北海道建設新聞社一同、お祈り申し上げ、コラムは今回で最終回といたします。ご愛読いただき、ありがとうございました。

阿部敏夫(あべ・としお) 1941年栗山町生まれ。北海道学芸大(現北海道教育大)札幌分校卒。博士(民俗学)。コラム「北の民俗学」では北海道の生活や記録・記憶を通して当時の人々の暮らしぶりや心情に着目し、現在に生きる者へのヒントを伝える。


©2024 The Hokkaido Construction News Co.,Ltd.

記事の更新情報は公式X(Twitter)アカウントでお知らせしています。