「自分たちの手が、技術が、そして思いが…、人々に安全を提供し、ひいては人々に安心と幸福をもたらしていることを自覚してください。私たちがこの日本という国を支え、この国に生きる全ての人を守っているのです」―(『北海道建設業協会百年史 北の大地を拓く』伊藤義郎名誉会長特別インタビュー episodeⅢより)。
心の底から日本と郷土北海道、そこに生きる人々の幸福を願い、建設業と自分の使命を果たそうと全力で走り続けた人だった。伊藤組土建の伊藤義郎取締役会長が5日、亡くなった。96歳だった。
1956(昭和31)年、30歳の若さで伊藤組土建社長に就任。61(昭和36)年には、1893(明治26)年創業の伊藤組3代目社長も受け継ぎ、名実ともにグループを統括するリーダーの座に着いた。
61年といえば政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言した年だったが、本道はまだ戦後の混乱から立ち直っておらず、インフラも絶対的に不足していた。そこで国土を守り発展させる建設業の本分を発揮しながら、政治家や諸官庁にも働き掛け、総力を結集して本道再生に向かう機運をつくったのが伊藤氏だった。
70(昭和45)年、地崎宇三郎氏の後を継ぎ、北海道建設業協会の5代目会長を引き受けたのもその覚悟の表れ。以後、トップリーダーとして建設業界を牽引してきた。活躍の場は建設業界だけにとどまらず、人望の高さから94(平成6)年には北海道商工会議所連合会会頭も任される。業界のみならず、本道経済界のトップを張ることにもなったのだった。
97(平成9)年に北海道拓殖銀行が破綻した際は、立場上、深く関わらざるをえず、昼夜問わず、陰に日向に文字通り獅子奮迅の働きをして経済へのダメージを最小限に抑え、本道企業を守り抜いた。伊藤氏が経済界のトップでなかったら、本道の傷はもっと深かったはずである。
26(大正15)年、札幌市生まれ。早稲田大政経学部経済学科卒業。米カリフォルニア大やコロンビア大でも学び、経営学を修めた。50(昭和25)年、伊藤組に入社。
活躍の場は建設業界にとどまらない。テレビ北海道会長はじめ、札幌国際エアカーゴターミナル会長、札幌商工会議所会頭と要職は多岐にわたった。文化、芸術、スポーツにも造詣が深く、全日本スキー連盟会長、札幌大学理事長、札幌交響楽団理事長なども歴任した。
70年に紺綬褒章、83年に藍綬褒章、2017年に旭日重光章を受章している。