平安前期の歌人小野小町に一首がある。「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」。百人一首にも選ばれている和歌だからご存じの人も少なくないのでないか
▼まだ心行くまで見てもいないのに、春の長雨のせいで桜の花もすっかり色あせてしまったというのである。消えゆくものに「あはれ」を感じ取ったのだろう。寂しさや悲しさの中に普遍的な美を見いだす日本ならではの情感である。英国作家カズオ・イシグロ氏がことしのノーベル文学賞を受賞したそうだ。代表作『わたしを離さないで』(早川書房)を以前読んだことがあるが、全編を通じて消えゆく運命を持つ者に寄り添う「あはれ」に似た情感にあふれていた
▼この作品は患者への臓器移植のためだけに生み育てられた若者たちの、全寮制施設での短い人生の物語である。残酷な話だ。ただ、氏はそれを悲哀で覆い尽くしはしなかった。命の一瞬の輝きをたたえ、はかなさの中から永遠の価値を拾い上げてみせたのである。長崎市で日本人の両親の下に生まれた氏は、父親の赴任に伴い5歳の時英国に移住したという。受賞後、自宅前で取材陣のインタビューに応じているのをニュースで見たが、「ものの見方や世界観は日本の影響を受けている」と語っていた。日本の記憶は薄れても、その感性まで失いはしなかったらしい
▼毎年取り沙汰される村上春樹氏はことしも受賞を逃し、皮肉にも盟友で日本の普遍的価値が作風に溶け込んだイシグロ氏が栄誉を勝ち得た。これは「あはれ」か、それとも「いとをかし」か。