コラム「透視図」

いわき市の一家心中

2020年06月05日 09時00分

 親を愛する子の思いは真っ直ぐであるがゆえに時として痛々しい。森鴎外は短編「最後の一句」で、そんな子の命懸けの行動を丹念に描いてみせた

 ▼江戸時代の話である。不幸な成り行きで死罪と決まった太郎兵衛の子どもたちが、自分たちの命と引き換えに父を助けてと奉行に願い出た。16歳の長女を筆頭に下は6歳までの5人兄弟である。子どもたちは父が戻れば毎日泣き暮らす母も元気になると考えたのだった。どんな沙汰が下されたのか。調べが長引いたことで51年ぶりに挙行された大嘗祭(だいじょうさい)と重なり、太郎兵衛は恩赦。子どもたちも死を免れたのだ。その物語を思い出したのは、きのう、新聞の片隅に出ていた記事を見たためである

 ▼記事はことし1月、いわき市で起こった母子4人殺害事件の初公判を伝えていた。真相は殺人罪に問われた被告の男(51)が、当時同居していた交際相手の女性(43)に頼まれ、女性の子どもたちからの承諾も得た上で実行された一家心中だったという。経済的困窮から女性が自殺願望を抱き、男も同調。どうするか聞かれた15歳の息子と、共に13歳の双子の娘たち3人も、母親だけを死なせるわけにいかないと心中を受け入れたらしい。冷静な判断ができたはずもない。むごい話である。楽しいことがこれからいっぱいあったろうに

 ▼明かされていない事情もあるかもしれないが、何にせよこんな行為は間違っている。子どもが決めたことだから、では済まされない。純真な愛情に甘えて、子どもを大人の勝手に巻き込むなどあってはならないのだ。


19日にプロ野球開幕

2020年06月04日 09時00分

 物理学者寺田寅彦の随筆「野球時代」を読むと、昭和初期のころ、庶民がいかに野球に熱中していたかをうかがい知れて面白い。寅彦は日常の風景をそのまま記している

 ▼二人の女の子がラジオで野球中継を聞いていたそうだ。「わかるのか」と尋ねると、「そうねえ」とよくは分かっていない様子。そこで寅彦はこう考えるのだ。「とにかくこの放送を聞くことは現代に生きる事の一つの要件であるかもしれない」。投げて打って走って、点が入る。よくは分からなくとも、ひいきにしているチームの調子が良ければそれだけで幸せな気分になれる。昔も今も変わらぬ野球の魅力だろう

 ▼そんなゲームを見たり聞いたりする毎日を「生きる事の一つの要件」にしているファンにとっては待ちに待った日に違いない。プロ野球12球団が新型コロナウイルス感染拡大のため見合わせていたセ・パ両リーグの公式戦を、19日に開幕すると決めた。当初予定されていたのが3月20日だからほぼ3カ月遅れのスタートである。応援ユニフォームやメガホンを引っ張り出し、いつでも来いと準備を整えている人もいるのでないか。心は既に球場へ飛んでいよう。ただ、残念ながら体は家にとどめておいてもらわねばならない。当面は無観客試合になるからである。きのうも選手から感染者が出た。そんな現状では慎重になるのも当然だ

 ▼かつて正岡子規は「うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に」と歌った。そんな絵になるプレーを球場で実際目にするのは、もう少し先の楽しみにとっておくしかない。


学校再開

2020年06月03日 09時00分

 商店のあるつじを左に折れ、橋を渡って少し行くと学校に着く―。誰もが自分の通学路を持っているものだろう。毎日歩く道だけにいつまでも記憶に残る

 ▼住野よるさんの小説『君の膵臓をたべたい』(双葉社)にも印象的な一節があった。難病を患う女子高生の友人を見送りながら「僕」が思うのだ。「きっと、僕が見ているいつもの帰り道と彼女が見るいつもの帰り道では、その一歩一歩の見え方がまるで違う」。おととい、会社に行こうと自宅を出ると、学校へと向かう高校生たちの姿があった。彼らもようやく自分の通学路に戻ってこれたわけだ。新型コロナウイルスの感染拡大で臨時休校していた小、中学校、高校が1日に再開されたのである。第2波に見舞われた本道では休校措置が5月末まで延長されていた

 ▼しばらくぶりに見る「いつも」の登校風景に思わず頬が緩んだ。彼らにしても、久しぶりの通学路はだいぶ違って見えたのでないか。休んでいるうちに桜は散り、街路樹は緑に変わっている。とはいえすぐ元通りというわけにもいかない。密を避けるため当面は分散登校になるようだ。数グループに分け、日や時間をずらして授業をするのである。遅れを取り戻すため夏休みも短縮するらしい

 ▼「修学旅行で眼鏡をはずした中村は美少女でした。それで、それだけ」笹公人。そんな思い出づくりの場となる修学旅行や体育大会、学校祭を見直すところも多いと聞く。コロナのせいだがふびんな話である。彼らが見るのはきっと例年と違う景色だろう。それもまた美しいものであればいいが。


民間宇宙船発進

2020年06月02日 09時00分

自動車の歴史は意外と古く、1700年代後半には既にフランスで蒸気自動車が使われていたという。もっぱら軍隊で大砲運搬の用に供されていたようだ。日本はまだ江戸中期で、人の移動はもちろん物を運ぶにも人力か馬に頼るしかなかったころである

 ▼自動車の用途が広がり、普及を始めるのはそれから100年後のこと。ドイツでダイムラーやベンツが、扱いやすいガソリンエンジン車を売り出してからだった。その後は皆さんご存じの通り。各社が競い合うことで自動車の質は上がり、コストは下がっていった。ある製品が一般の人の手に入る段階に達するには、これと同じ過程を経ることが多い。宇宙船もそれは変わらないのでないか

 ▼米国は5月31日午前4時22分(日本時間)、民間企業の「スペースX」が開発した有人宇宙船「クルードラゴン」の打ち上げに成功した。同午後11時過ぎには国際宇宙ステーションに到着し、飛行士の移乗まで完遂。本格宇宙開発に民間が参入する画期的出来事だった。プロジェクトは米国がスペースXとボーイングの2社に委託して進めたそうだ。競争により技術開発が速まり、経費も大幅に削減された。しかも宇宙船の操作はタッチパネル式となり扱いやすさが格段に向上したのだとか

 ▼このままいけば100年後には、誰もが宇宙旅行を楽しめるようになっているかもしれない。クルードラゴンの試験は今回が最後。次回からは運用段階に移る。8月30日に打ち上げが予定される1号機に搭乗するのは日本人宇宙飛行士の野口聡一さんだ。それも楽しみである。


衣替え

2020年06月01日 09時00分

 きょうから6月である。冬と夏を行ったり来たりと定まらなかった服装も、ようやく夏物に落ち着くころだ。以前読んだ札幌出身の小説家森田たまさんの随想「衣がえ」を思い出す。こんな一節があった

 ▼「つつましやかに自然とともに生き、自然の中に暮らしてきたわれわれは、春の花咲けば汚れた綿入れをぬぎ、初夏の緑の下に初あわせの軽きをよろこび、六月一日からは寒かろうと暑かろうと単衣ものを着る」。本道は急に暑くなった。ストーブのつまみをいきなり大にされたようで体がついていかない。とはいえこれでようやく冬物を押し入れの奥にしまったり、お役御免の服を捨てたりできる。「思ひ切り捨てて身軽に更衣」天野照子。夏物を着ると心まで軽くなるから不思議である

 ▼安倍首相が先日の記者会見で述べた「コロナの時代の新たな日常」も、きょうからがいよいよ本番だろう。いわば対応策の衣替えである。これまで通り感染拡大を防ぎながら、可能な限り社会経済活動を元に戻していく。イベントや文化施設が再開され、観光地も開放、飲食店は通常営業と形だけはコロナ前に近付く。ただ装いは全く変わる。密接、密集、密閉を避け消毒を徹底。さらにマスク着用となればサービスはもちろん、集客や売り上げにもかなりの影響が出よう。世界的感染爆発ゆえ製造業の業績もすぐには回復しまい

 ▼残念ながらこの新たな日常は、始めてみなければ分からないことばかりである。「更衣してやはらかき風にあふ」新山芳子。しばらくはそう願いながら前に進むしかないのかもしれない。


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