▼世界的数学者岡潔は北大で教えていたこともあったという。1年余りで依願退職しているのだが、その理由を聞けば道産子としては苦笑いするしかない。「札幌の冬はしのぎがたい」からだったそう。自伝『春の草』(日経ビジネス人文庫)で知った。もっとも在職は1941年10月から。戦中のため暖房は十分でなかったはず。建物の防寒性も低かった。大阪出身の氏にとって相当過酷だったに違いない。
▼自伝の表題は、子どものころ読んだ少年雑誌に載っていたこんな詩から借りたという。「萌えよ萌えよ春の草 生いよ生いよ野辺の草 新しい夢をはぐくみて 春のいのちをのばせかし」。生命力に満ちあふれた言葉が並ぶ。4月生まれだったそうだから、春への思い入れが人一倍強かったのかもしれない。そう考えると、初めて厳しい札幌の冬を経験したであろう氏に、同情の念も湧いてこようというもの。冬に慣れた道産子であっても、毎年、同様に春を待ちわびているのである。
▼きのうから旧暦二十四節気の清明だ。全てのものが清らかで生き生きとするころだが、このところそんなすがすがしい日が続く。日差しが暖かくなってきて、道行く人の表情も心なしか和らいで見える。冬が終わった解放感からか、何か新しいことを始めたい気分になるのも春ならではのこと。『春の草』にこんな一節もあった。「人の心の田に種子を播くと、その種子が芽生えて育つのです」。春は種まきの季節でもある。さて、この春は、わが心の田にどんな種をまいてみようか。