▼明治期の啓蒙(けいもう)思想家福沢諭吉は、借金に対してだけは大層な臆病者だったらしい。『福翁自伝』(岩波文庫)でこう語っている。「およそ世の中に何が怖いと言っても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない」。下級士族の家に生まれ、早くに父親を失ったため、幼いころから「貧乏の味をなめ尽くし」たからだという。母親が金の工面や借金で苦労した様子も忘れられなかったようだ。
▼そんな自分が紙幣の肖像になるとは想像もしなかったろうが、金銭の大切さが骨身に染みている人だけに、泉下でも文句は言っていないに違いない。ただ今回の財務省の決定には少々驚いたのでないか。2016年度にその1万円札を大幅に増刷するという。実に1億8000万枚、1兆8000億円分である。ここ数年は年間10億5000万枚だったが、本年度は12億3000万枚になる。今出回っている現金の中で、1万円札だけが際立って伸びていることに対応するものだそう。
▼いわゆる「たんす預金」として、現金のまま持っている人が増えたとのこと。日銀のマイナス金利で、預金しても利息収入が期待できないことも背景にあるようだ。もっとも福沢も「金は金でしまって置いて、払うときにはその紙幣を計えて渡してやる」主義だったそうだから、ある意味堅実なのかもしれぬ。とはいえ、「持ち運び便利な金庫盗まれる」(『平成川柳傑作選』毎日新聞出版)には用心である。まあ、うなるほどの1万円札を持たない庶民にはしょせん関係ない話だが。