「真実」と「偽り」が別の道を歩むことになったのには訳があるという。ギリシャ民話はそのいきさつをこう教える
▼ある日「偽り」が「真実」を食堂に誘った。「偽り」はたらふく食べた後、給仕を呼び「1時間前に金貨を渡したのに釣りをもらってない」と苦情。もちろんうそである。支配人が来て給仕に確認するが当然「金貨は払われてない」。怒鳴り散らす「偽り」に困り支配人はついに釣りを渡してしまう。店から出た「偽り」は笑って言ったそうだ。「うまくいったろ」。それを聞いた「真実」はあきれ、「君の生き方は認められない」。以来、たもとを分かったという。ところでこの件、支配人の対応に疑問が湧くとはいえ、当事者も目撃者もそろっているため事実を明らかにするのはさほど難しくない
▼ではこちらはどうか。複数の女性記者にセクハラ発言をしていたとされる財務省の福田淳一事務次官のことである。週刊新潮が現場での生々しいやりとりとともに福田次官の下品な言動を報じた。事実なら恥ずべき行為で責任は免れまい。ただ福田次官は16日、報道を否定。新潮を名誉棄損で訴える姿勢を示した。どちらかが「偽り」のはずだが、さて
▼対応に苦慮した財務省は女性記者に調査への協力を要請した。これに協力する義理はないが名乗りを上げずとも他の弁護士を通すなど信頼に足る被害者本人の説明は必要だろう。伝聞だけで罪にするなら人民裁判と同じ。それは法治国家にそぐわない。先の民話でも「真実」の証言があれば、「偽り」をその場で警察に突き出せたのである。