▼ふとした拍子に、離れて久しい古里のことが切なく脳裏によみがえってくることは、誰にでもあるのでないか。詩人三好達治に「郷愁」という詩がある。始まりはこうだ。「蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬を越え、午後の街角に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる」。達治も、あるはずのない場所に海を見て壁の向こうにさざ波の音を聞いていたのだろう。
▼強い望郷の思いがそれを見せているのに違いない。北朝鮮による拉致の被害者で、14年前に帰国した蓮池薫さんも捕らわれ先で同様の経験をしていたという。軟禁されていた「招待所」の西側にあった小高い丘の向こうに、日本海があるような気がして仕方なかったそうだ。内陸の平壌で海からは遠く離れていたにもかかわらず。『拉致と決断』(新潮文庫)に記していた。蓮池さんは拉致にこう憤っている。被害者たちは「それぞれの『絆』と『夢』を断ち切られ運命を狂わされた」
▼きょうは国連などが定めた「強制失踪の被害者のための国際デー」である。今も特定の国が何らかの目的で、自国や他国の人を強制的に連れ去り、隔離・監禁する例が後を絶たない。そんな現実を忘れないための日だという。日本では北朝鮮による拉致事件がまだ解決しないまま残されている。独裁政権がのさばる国、テロや内戦が続く国で失踪者が相次ぐ。当たり前の日常や愛する人と無理やり引き離されてしまい、壁の向こうに古里を見ている被害者が世界には大勢いるのである。