旅をしているといろいろな事情で予定に遅れの出ることがある。誰しも経験することではないか。『古今和歌集』の選者、紀貫之は土佐から京へ船で帰る途中、悪天に悩まされた。『土佐日記』に書いている
▼一度船出はしたものの、黒い雲が出て風も吹いてきたため港に引き返したことがあったそうだ。海が荒れ船はその場で足止め。貫之はこう言って嘆くのである。「船かへる。この間に雨ふりぬ。いとわびし」。早く帰りたいのに船は動かない。いらいらはつのり、ついに「何ごともおもほえず」の心持ち、つまり無気力に陥ってしまったそうだ。同船者たちも同じと見えて気晴らしを考える人も出てきた。何をしたか。歌を詠んだそうだ
▼この話を思い出したのは、歌手松山千春さんが20日、出発が遅れ険悪な雰囲気が漂い始めた全日空機内で代表曲「大空と大地の中で」を熱唱し、場を和ませたとの報を聞いたからである。和歌と曲との違いはあるにせよ、今も昔も歌は人の心を癒やすものであるらしい。Uターンラッシュによる保安検査場の混雑で、新千歳発大阪行きの便の乗客は1時間以上待機していたという。偶然乗り合わせた松山さんは機長に許可を得てマイクを握り、検査場の頑張りを伝えながら乗客もねぎらい、歌を披露したそうだ
▼なかなかできることではあるまい。ただ道産子なら「千春らしいな」との感想も出よう。歌が終わると乗客は拍手喝采。場も明るくなったらしい。貫之も歌が詠まれると船内で笑いが起こったと記していた。人の情に触れた旅はきっと宝物になったろう。