松尾芭蕉の有名な一句「秋深き隣は何をする人ぞ」は、正体の分からぬ隣人をいぶかる言葉として今でもよく使われる。隣に住む人は自分で選べないだけに、不審の念を抱くのもある程度仕方がない
▼与謝野晶子も、厚い塀を巡らせた隣の家に不満を募らせていた一時期の生活を随想につづっていた。高い木立がやぶ蚊とともに塀を乗り越え侵入してくる上、番犬が向こう側から家族に激しくほえかかってきたそうだ。こういった問題はいつの時代もなかなか解決が難しい。一方は生活に支障が出るほど困っているのに、迷惑を掛けている方にその自覚がないからである。簡単に引っ越すわけにもいかず、さりとて注意して気まずくなるのも本意でない。同種の経験をした人も少なくなかろう
▼悩んでいるうち、木立はさらに伸びて一層わが家を悩ませる。放っておくと事態は悪化の一途をたどりがちだ。ついには不満が膨らみ一触即発。このところの日本と韓国との隣人関係にも相通じるところがあるのでないか。1965年の日韓基本条約をほごにした韓国大法院のいわゆる「徴用工判決」以来、慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決するとの合意で設立した「和解・癒やし財団」の一方的解散、韓国与野党議員によるこれみよがしの竹島上陸強行。きょうは三菱重工業に対する徴用工訴訟の判決も予定されているが、さてどうなることやら
▼冒頭の句に芭蕉が込めた思いはもともと、隣に住む人に向けた温かい関心だという。ただこれだけほえたてられては、日本の心境は晶子の方に近づかざるを得ない。