作家浅田次郎さんの人情味あふれる小説にはファンが多い。『地下鉄(メトロ)に乗って』(講談社)もそんな作品の一つである。現代と戦争の時代を行き来しながら物語は進む。小説では闇市が背景として重要な位置を占めていた
▼こんな会話が交わされる。「だって愕くじゃありませんか、メリケン粉が一貫目で百三十五円。あたしの給料が六百五十円ですよ」「百三十五円!―なんだか毎日値が上がりますな」。当時、メリケン粉一貫目の公定価格は2円ほどだったというから、なんと67倍以上で取引されていたのである。戦後の極端な物資不足で食料全般が手に入りにくい上、欲しい人も多いため値段がつり上げられていたのだ
▼時代だろう、で片付けられないのは昨今の感染防止用マスクを巡る状況を見たからである。ネットのフリーマーケットサイトなどで法外な値段を付けて売られている例を数多く見た。通常なら1箱60枚入り700円ほどの使い捨てマスクが、5箱5万円で販売されていたりする。現代の闇市ここにあり、といった趣だ。新型コロナウイルスの感染拡大は続いているのに店頭ではマスクが手に入りにくい。守銭奴たちはそこに目を付けたわけである。人の弱みにつけ込むあこぎな商売だろう。ただ彼らの横行もここまで。政府は政令を改正し、15日から高値の転売に罰則を科す
▼戦後75年たってまだ闇市でもあるまい。客が闇商人に抱く思いは感謝と信頼でなく怒りとあざけりだ。マスク高額転売に手を染めるやからは幾ばくかの利益と引き換えに心も売り渡しているのである。