日本語には「三歩下がって師の影を踏まず」や「付かず離れず」など人と人との望ましい距離感を教える言葉が多い。相手との距離に気を遣いながら暮らす文化があるからだろう
▼歌人穂村弘さんのエッセー「距離感のマナー」にも、混んだ電車内での風景を描いたこんな一節があった。「一駅ごとに変化する状況に応じて、乗客の一人一人がちょっとずつ位置や向きを変えて少しでも快適な環境を作るようにする」。周りの乗客と話し合ってそうするわけでなく、誰もが自然と適切な距離を微調整しているのだ。穂村さんはそれを見て、「まるで生きたパズルのようだ」と感心するのである。そんな生きたパズルが今は一層難易度を増しているに違いない
▼新型コロナウイルスに感染する潜在リスクがまだ消えていない中で、多くの人が元の暮らしに戻り始めているからである。電車はもちろん会社でも街中でも、コロナ前とは適切な距離感がだいぶ変わっていよう。微調整くらいでは追い付かないかもしれない。第一生命の「サラリーマン川柳」に以前こんな作品があった。「急停車つり革つかめず他人つかむ」(ターミネーちゃん)。昔だからこその笑い話である。今ならおそらく気まずい空気が流れるはずだ
▼しばらくマスクも必須になるが、暑い季節に着け続けるのはつらい。TPOに応じて賢く着脱することになろう。これもまた距離感に迷いの出るところである。とはいえ日本人はこの熟練の研ぎ澄まされた距離感で、感染拡大を効果的に抑え込んできた。新たなマナーにもすぐ慣れるのでないか。