自分で口にするのがはばかられる事柄を、動物や妖怪に語らせる手法を文学者はたまに使う。ある男がかっぱの世界に迷い込み、いろいろな経験をする芥川龍之介の『河童』もその一つ。権力を風刺するこんな場面が織り込まれていた
▼男が友人のかっぱと演奏会に出掛けピアノに聴き入っていると、後ろの席から「演奏禁止」の声が響く。振り返ると巡査がいて、さらに声を張り上げ「演奏禁止」と怒鳴るのである。巡査はピアノの音色に人々を惑わせ風紀を乱す何かがあると判断したようだ。ただ、音に政治、思想的信条があるはずもない。つまりは自分の気にいらない対象を検閲し、難癖を付けて弾圧したかっただけなのだろう。この作品が発表される2年前に治安維持法が成立していた
▼今の香港で起こっているのもそんな権力の暴走に違いない。香港警察がおととい、日本の議会に当たる立法会の民主派前議員ら53人を国家安全維持法違反容疑で一斉逮捕した。昨年6月の同法施行以降、最大規模という。民主派が昨年7月、立法会選挙で過半数を獲得するため実施した候補者絞り込みの予備選が摘発の理由らしい。過半数を得て政府予算否決を狙うのは法が禁じる国家政権転覆行為に当たるからだそうだ
▼何のことはない。中国の意に反し民主主義を信奉する人間はどんな理由を付けてでも弾圧するという脅しである。先の小説で男の友人のかっぱ哲学者が自身の書にこう記していた。「阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている」。横暴なかっぱ巡査だけに向けられた言葉ではあるまい。