脚本家の向田邦子さんが「花束」と題するエッセーで、名優森繁久彌さんに触れていた。演技を通じて多くのことを教えられたというのである。中でも一番大きいのは「ことばは音である」との気付きだったそうだ
▼向田さんは「馬鹿」のひと言を例に挙げていた。「森繁さんは、その時々のシチュエーションにふさわしく、百通りにも二百通りにも、いろんな人間がいるんだなあ、と書いた人間をびっくりさせる」。同じ「馬鹿」でも深い愛情表現から怒りの爆発まで、誰がどんな場面で言うかによって人に与える印象はまるで違う。森繁さんはそれを自在に演じ分けた。つまり「ことばは音」の意味するところは、言葉は人だということだろう
▼「努力は必ず報われる」。そんな使い古されてすり切れた言葉も、この人が言うとがぜん確かな輝きを放つ。競泳女子の池江璃花子選手である。おととい、東京五輪の代表選考会を兼ねた競泳日本選手権の女子100mバタフライで優勝。五輪代表の切符を手にした。競技後の会見で池江さんは「つらくてもしんどくても」に続けて、先の言葉を語ったのである。白血病を公表したのが2019年2月。苦しい治療に耐え抜き、プール練習を再開したのが去年の3月だった
▼それからまだ1年しか経っていない。何という努力、精神力か。きっとあの笑顔の裏ではプールほどの涙と汗を流したに違いない。以前、池江さんは「私にとっては、生きていることが奇跡」とも語っていた。五輪で活躍した後にもまた、誰もまねできない言葉をわれわれに聞かせてほしい。