小説家村上春樹さんのノンフィクションにオウム真理教が犯した地下鉄サリン事件の被害者ら60人余りにインタビューした『アンダーグラウンド』(講談社)がある。事件をきっかけにいろいろ考えたからか、当日の出来事だけでなく昔の経験や日常生活について語る人も多い
▼妊娠中に夫を奪われた女性もその一人である。結婚に至る物語や子どもを授かったときに二人がどんなに喜んだかを村上さんに伝えている。その上で、幸せな日々を思い返しながらこう付け加えた。「すごーく優しい人でした。死ぬ前の方がますます優しくなってきたような気がします」。亡くなった男性が生まれてくる子をどんなに楽しみにしていたか分かる。この男性に限らない。車内にいた乗客一人一人に、その人なりの大切な人生があったのである
▼10月31日に東京都調布市の京王線特急車内で刃物を振り回し、火を放った服部恭太容疑者(24)もやはり、そんな他の人の大切な人生を気に掛けるそぶりは少しもなかったようだ。刺されたり、煙を吸い込んだりして男女17人が重軽傷を負った。犯行に及んだ動機が、「死にたかったが自分では死ねないので多くの人を殺せば死刑になると思った」というのだから、あまりの身勝手さにあきれるほかない
▼犯行時、社会を憎み平然と人を殺す映画のキャラクターに扮(ふん)し、刃渡り30センチのナイフとライターオイル5㍑を用意していたそうだ。本人は格好をつけたつもりだろう。だが人を傷付けて自分の願望を果たそうとの発想はオウム真理教同様極めて幼稚で格好悪い。