俗に「欲の皮ほど深い川はない」という。芥川龍之介の『魔術』もそんな人間の欲について掘り下げた短編だった
▼主人公たちがバラモンの秘法を学んだ青年の家に集まるところから話は始まる。青年は魔術で石炭を金貨に変え、テーブルに積み上げた。青年が元に戻そうとするとある男がもったいないと言い出す。欲のない主人公は元に戻すのに賛成だ。激しい議論の末、トランプで勝った者が総取りすると決めた。主人公は勝って元に戻そうと考えたのである。男は自分の全財産も加えて賭けたが運は巡ってこない。勝利を確信した主人公はそこで気持ちが揺らぐ。「私は向うの全財産を一度に手に入れることが出来る」。そう思った途端、金貨は幻のように消えてしまった
▼詐欺の疑いで1日までに逮捕されたソニー生命保険社員の石井伶容疑者も今、同じみじめさを感じているのでないか。ソニー生命の海外子会社名義口座から米国の銀行口座に不正送金させる手口だったという。その額なんと170億円。報道によると石井容疑者は当時、ソニー生命の財務部所属で子会社の社員も兼務していたという。ことし5月中旬、在宅勤務だったのをいいことに、社内の正式な手続きを経たと偽って送金を指示したとみられている。指を動かすだけで資金を右から左へ。魔術師にでもなった気分だったのかもしれない
▼被害は送金の翌日、別の社員が口座残高を確認したことで発覚したそうだ。機械はごまかせても人をだますことはできなかった。しかし170億円とは。いくらなんでも欲の川が深すぎだろう。