哲学者鷲田清一さんのエッセーにこんな一節を見つけた。「『見て見ぬふりをする』と『見ぬふりをして見る』というのは、同じことのように聞こえるが、あいだにじつは並々ならぬ温度差がある」。さて、どんな違いがあるのか
▼ある乗客が他の乗客に迷惑を掛けられているのに、注意した後に起きることを考えると怖くて何もできない。そこで〝触らぬ神に〟と傍観者に徹するのが「見て見ぬふりをする」だそう。一方、外で泣いている子どもを見ながら、きっと何か家庭の事情があるんだろうと手は出さずに遠目で見守るのが「見ぬふりをして見る」だという。これにもう一つ「見て見ぬふりはできない」を加えて、自分がその場にいたらどれを選んだかとしばし考え込んでしまった
▼JR宇都宮線の車内で喫煙していた男を注意した男子高校生が暴行を受け、大けがをした23日の事件のことである。男は車内や駅のホームで生徒を土下座させた上、殴ったり蹴ったりして顔の骨を折る重傷を負わせたそうだ。報道によると生徒にはぜんそくの持病があり、受動喫煙を避けるため声を掛けたという。けんかを売られたと思った男は激高。逮捕後も「正当防衛だ」と主張しているらしい。あきれた話である
▼野犬に手を出すような生徒の行為に異を唱える意見もあるが、生徒に非はない。見て見ぬふりはできない性格なのだろう。気になるのは男を止めようとした乗客がいなかったと伝えられていることである。見て見ぬふりでなく見ぬふりをして見るの心で、生徒を助ける手立てを何か講じられなかったか。