夏目漱石の小説『こころ』に、男女の機微に触れたこんな一節があった。物語の中心となる先生が、妻と暮らしていく中で感じたことを心の声で語っている。「女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます」
▼大正期に書かれた小説ゆえ、いささか女性に対する偏見めいた風はあるが、一面の真実を捉えてはいよう。きれいごとの常識を多少破ってでも親しい人が自分のために行動を起こしてくれる。それをうれしく思う気持ちに男女の違いはあるまい。とはいえ〝俺ならこんなときどうしたろう〟と考えた男性も多かったのでないか
▼米俳優ウィル・スミスさんが27日の第94回米アカデミー賞授賞式で妻の病気をやゆしたプレゼンターのクリス・ロックさんに怒り、ステージまで上がっていって平手打ちを食わせた一件である。スミスさんは後で自らの行為を謝罪したが、主催者側は処分も辞さない構えという。スミスさんの妻は脱毛症に悩み、髪をそり上げている。式にも同席していた。あろうことかロックさんはそんな彼女の頭を笑いのネタにしたのである。スミスさんも暴力は良くないとの常識はわきまえていたに違いない。妻の名誉を守りたい一心だったのだろう
▼スミスさんが暴力の責任を問われるのは仕方ない。それより気になるのはロックさんがやゆした際、会場にいた人々も大笑いしていた事実である。さすがアカデミーの関係者。集団いじめもエンターテインメントとして楽しめるらしい。