芥川龍之介の短編小説『藪の中』をご存じだろうか。たった一つの出来事が、見る人によって全く別の話になってしまう不条理を描いた作品である
▼発端は山中で刀傷を負った男の死体が発見されたこと。犯人は捕らえられ、その盗人や男の妻、親族、目撃者ら7人がそれぞれ事件の「真実」を語るのだが、証言の内容はバラバラ。誰かがうそをついているのか、それともただの勘違い。はたまた目が曇っていたのか。事情が込み入って真相が判然としないときに使われる「藪の中」の語源となった小説でもある。現実にもまま起こる話だが、今回ほどやぶの深さを感じさせられる騒動はあまりない。大相撲横綱日馬富士の貴ノ岩暴行問題のことである
▼当初は、酒の席で後輩力士の態度の悪さに激高した日馬富士が、度を越した暴力を振るった不祥事という単純な図式が伝えられていた。許されないことではあるが、これだけなら体を張って勝負する格闘技の世界にはあり得ること、との受け止めが主だったろう。ところが、である。貴乃花親方は警察に被害届を出す一方、日本相撲協会の調査要請には応じず。それではと酒席に居た者たちに事情を聴くと話はバラバラ。そのうち朝青龍、旭鷲山といったモンゴル在住の元力士までもが口を挟んできて、今まさに「藪の中」だ
▼物語は真相が分からないまま終わるが、相撲界はそれで済まされまい。これまでも星の貸し借りや「かわいがり」と称するいじめが問題視されてきた。土俵にまでやぶがはびこるようなら、せっかく戻ったファンの心もまた離れよう。