詩人天野忠に「きりん」の詩がある。前半を引いてみよう。「あんたが 見つめているものは あんまり高いので わたしは 見つめることができない。あんたが 思いつめていることを 思いあてることは とてもできない」
▼連日、平昌冬季五輪で熱い戦いを繰り広げるアスリートたちを見ていて、この詩と同じ気持ちにさせられている。もっともこの場合、彼らは同じキリンでも「麒麟」の方なのかもしれない。選手それぞれの見つめているものが高いのだから、頂点を懸けた戦いが伯仲するのも当たり前。日本人メダリストと金メダリストとの点数やタイムの差を見て、それを実感する毎日である
▼各選手の差は銅の男子モーグル原大智4・44点、銀のスピードスケート女子1500m高木美帆0秒2、銅のジャンプ女子高梨沙羅20・8点、銀のスノーボード男子平野歩夢2・5点、銀のノルディックノーマルヒル渡部暁斗4秒8、スピードスケート女子1000m銀の小平奈緒0秒26、同銅の高木0秒42。何と僅差であることか。屋外なら風の一吹きや雪面の乱れ、屋内ならわずかなリンク面の荒れや一瞬の気の迷いで命運が分かれてしまう。結果を嘆いても仕方ないが、日本選手が金メダルでも決しておかしくはなかったのだ
▼「きりん」の詩は「けれど」と続く。「あんたの姿は あんまり自然なので よく判る。涙が出るほど わかる」。われわれに選手と同じものは見えない。ただ五輪にかける彼らの真剣な思いは分かるつもりでいる。きょうも涙が出るのを止められない観戦者は多いだろう。