英国のミステリー作家ミック・ヘロンに、情報部の本流から落ちこぼれたスパイたちの活躍を描く『死んだライオン』(ハヤカワ文庫)がある
▼冒頭の舞台は鉄道駅。年老いたスパイが敵をつけていると、故障で停車した列車からホームに乗客が吐き出されてきた。老スパイも人波に流される。誰かの傘やバッグが体にぶつかる。それでも敵を見失わず同じバスに乗ることができた。しかしそこで目の前が暗くなり…。体にぶつかった傘かバッグに毒が仕込まれていたわけ。つまり暗殺である。列車の故障から仕組まれたものだったのだろう。人ごみに紛れて実行することで誰の記憶にも残らないようにし、遅行性の毒によって逃げる時間も稼いだ。こう言っては何だがこれぞプロの仕事である
▼それに引き換え北朝鮮の金正男氏がクアラルンプール国際空港で殺害された事件の露骨さはどうしたことか。北朝鮮工作員の仕業と推定されているものの、学芸発表会のようにどうぞ見てくださいといわんばかりである。実行犯の女性2人はほどなく逮捕され、関与した北朝鮮の男たちも次々と特定された。防犯カメラと現地警察の捜査力ゆえかもしれないが、どうも話が簡単すぎないか。スパイ小説なら三流である
▼ただ、それは見えているまま、北朝鮮が政権基盤安定のためだけに企てた事件だった場合のこと。たぶんそんな単純な構図ではあるまい。一つ言えるのは、このあからさまな事件が多くの人に北朝鮮への恐怖感を植え付けたということ。心理的なテロをも意図していたとすればかなり厄介である。