冷静な判断力を持ち人情にも厚い江戸南町奉行大岡越前守忠相の名裁判、いわゆる「大岡裁き」のほとんどは後世の人の創作らしい。「三方一両損」や「実母継母御詮議の事」はご存じの人も多いだろう
▼もっとも、卓越した人物だったからこそ功績をたたえる逸話が生まれたわけで、決して凡庸ではなかったようだ。40歳そこそこで8代将軍吉宗に登用されて町奉行となり、19年間も務めたのが何よりの証しである。忠相が普請奉行から昇進し南町奉行に就任したのが1717(享保2)年3月15日(旧暦2月3日)のことだから、きょうでちょうど300年になる
▼作り話を抜きにしても、目覚ましい成果を上げた仕事は枚挙にいとまがない。刑罰の適正化は本業だから当然として、江戸を火事から守るため町火消いろは四十七組を組織したり、貧者救済のため小石川養生所を設立したりもした。さらに幕府財政立て直しのため新田開発にも手腕を発揮したというのだからその多彩な能力にはおそれ入るばかり。今の東京都に大岡越前がいれば、20年東京五輪・パラリンピックも豊洲新市場移転も各段にスムーズに進んだかもしれぬ。殊に都議会が百条委員会まで設置して泥沼の様相を呈する豊洲に関しては、どんな「大岡裁き」を下すのか。かなわぬ願いながら大いに興味を引かれる
▼将軍吉宗にも直言した大岡越前のことだ。中ぶらりんのまま放置され続ける市場関係者や延期費用を負担する庶民のことを第一に考え、このままでは三方皆損、政争の具にするのはもうやめよ、と意見するのでないか。