司馬遼太郎が昭和中期に取り上げたことで再び知られるようになった明治期の宗教哲学者に、真宗大谷派の僧侶清沢満之がいる。東大文学部に学び、仏教界の改革に乗り出した人だったという
▼厳しい自戒生活を実践する中で、こんな言葉を残したそうだ。「他の善と、自の悪とは、顕微鏡にて之を見よ。そのいかに大なるかを感ずべし。他の悪と自の善とは、望遠鏡にて之を見よ。そのいかに小なるかを感ずべし」。自分の犯した過ちは、わが身かわいさもあってつい過小評価してしまいがちなもの。悪気はなかった、わざとじゃないんだ、と言い訳を並べたくもなる。そこをあえて拡大して見ることで初めて、自分の罪の重さや他の人に与えた痛みが分かるというのだろう
▼誰にでも当てはまることではある。ただ、悲惨な交通事故を起こし、罪が重過ぎるからと下級審判決を不服として控訴していた者たちには特に、この言葉をかみしめてほしい。小樽と砂川の裁判で、相次いで危険運転致死傷罪が決まった。女性4人が死傷した小樽ひき逃げで最高裁は18日、被告の「罪が重過ぎる」との主張を退け、二審判決妥当の決定を下した。一家5人が死傷した砂川も、札幌高裁は14日、被告2人の「共謀していない」との訴えを認めず一審判決を支持した
▼控訴を否定するつもりはないが、裁判で見えたのは自らの罪を望遠鏡で遠く眺めるかのような被告たちの罪悪感の薄さである。これでは被害者らも救われまい。刑務所には時間という顕微鏡もあろう。今度こそ自分の罪をしっかり見詰めねばならぬ。