万葉歌人山上憶良の歌でまず思い浮かぶのは「銀(しろかね)も 金(くがね)も 玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」の一首でないか。わが子への深い愛情がにじむ名歌である
▼その思いは生涯変わらなかったらしい。晩年には老いて重病に苦しむ中でこんな歌も詠んでいた。「五月蠅なす 騒く子どもを打棄てては 死には知らず 見つつあれば心は燃えぬ かにかくに思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ」。憶良はこのとき、いっそ死にたいと願うほど容態が悪かった。それでも「うるさいくらい元気な子どもを放っては死ねない。見ているだけで力も湧く。ただいろいろ考えると泣けてくる」というのである。子どもを守りたい一心で日々命をつないでいたのだ
▼北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親で、40年以上の長きにわたり娘ら拉致被害者の救出活動を続けてきた横田滋さんが5日、老衰のため亡くなった。この方も娘を取り返し、笑顔を見るまでは死ねないと必死に頑張ってきた人だろう。幸福を奪った北朝鮮はもちろん、被害者家族は国内政治にも翻弄(ほんろう)されてきた。めぐみさんの拉致疑惑が持ち上がった1997年当時、社民党は「拉致は日本側の創作だ」と主張し解決を妨げ、自民党の一部政治家も国交回復を進めるため事件を大ごとにしないよう画策していたのである
▼安倍首相が本腰を入れ状況は改善されたが、かの国は依然かたくなだ。そんな中でも横田さんは常に冷静で、諦めなど無縁の強さを秘めているように見えた。心の中ではどれだけ泣いていたことか。