自分がまいた種は自分で刈り取らねばならぬ―。今でもたまに使われる言い回しだろう。自分が原因で起こった出来事の責任は、自分で負わねばならないという意味である。文豪夏目漱石はそれを小説『こころ』の主題に据えた
▼ある女性を巡って友人を精神的に追い詰め自殺に追いやってしまった「先生」が、その後も自分の過去の行為から逃れられないまま苦しみ続ける内容である。最後には先生も自ら命を絶つ。存在を消し去るまで自分を追い込むのもどうかと思うが、人の道を踏み外して手に入れた幸せを潔しとしなかった先生の考えには胸を突かれるものがある。とはいえ実際は過ちなどどこ吹く風と、責任回避にきゅうきゅうとする人が多いのが現実かもしれない
▼それを思い出したのは一つの裁判に触れたためである。死亡交通事故を起こしたものの原因は病気だったとして1審で無罪になった男性(88)が、控訴審で「罪を償いたい」と自ら有罪を主張したというのだ。聞いたことのない話である。事故は2018年、前橋市で発生した。男性の運転する車が自転車で登校中の女子高生2人をはね、1人が亡くなったのである。男性は持病の薬の副作用が事故の原因だったとする弁護側主張が認められ、無罪。検察側が控訴していた
▼男性が検察側の訴えを認め、有罪受け入れを表明したのは6日の控訴審初公判でのこと。たとえ無罪になったとしても自分の過ちが消えるわけではない。無罪判決を捨て去ってでも失いたくない何かがあったのだろう。それは人の「こころ」というものでないか。