三島由紀夫の作品に、『百万円煎餅』という少々不健全ながら味わい深い短編小説がある。値段が百万円の高価な煎餅を買う話でも、煎餅を百万円分大量に買う話でもない
▼若い夫婦が仕事に向かう途中で浅草の屋内遊技施設「新世界」に寄り、験がいいからと実際には存在しない百万円札を煎餅のようにしたお菓子を買うのである。本筋ではないが、そのエピソードが効果的に使われ物語に奥行きを与えているのだ。百万円札をかたどった煎餅というのがいかにも安っぽく、おかしみがある。どこかの土産物屋に置いてありそうでないか。今はまだこんな話も引っ掛かりなく楽しめるが、近い将来、理解できない人がほとんどになるかもしれない
▼スマホの決済アプリなどで給与を受け取る「デジタル給与」の解禁に向け厚生労働省の検討が加速している。19日、労働政策審議会の分科会に制度案の骨子を示したという。銀行振り込みにはまだ現金の感触が残っていたが、デジタル給与となるともはや実体がない。受け取りから支払いまで全てスマホや電子マネーで済むとなれば、お金に触れる機会は一気になくなっていこう。妻が夫にこづかいを渡すのもスマホでピッで終わり。便利だが風情のないことこの上ない
▼とはいえ情報の恒久的安全性さえ保証されるなら、既に使い慣れた人にとっては歓迎できる制度変更に違いない。まあ、これも時代の流れ。米や小判で給与を受け取っている人は今いないのである。ただ、験を担ぎたいときには、たとえ安っぽくとも電子マネー煎餅より百万円煎餅の方がいい。