深い人間考察で知られる小説家の司馬遼太郎は調べものをしているとき、歴史に名を残した有名な人物ではないのに、妙に気になる人物に遭遇することが時々あったという。エッセー「無名の人」(1972年)に記している
▼「舞台の上手から下手へすっと一度だけ通り過ぎてしまうだけの人に出くわして、この人物はいったいどういう人なのだろうと、ひどく気になったりする」。芝居に例え、そう説明していた。それを思い出したのは、横須賀市であった驚きの出来事を聞いたからである。ここにも「無名の人」が現れたのだ。17日、一人の高齢男性が市役所を訪れ、職員にリュックサックを渡し立ち去った。中を確認すると6000万円の現金。「何かに役立ててほしい」と書かれた手紙が添えられていたそうだ
▼NHKニュースによると男性は70、80歳代で、「これを市長に渡したい」「名前や住所は明かしたくない」とだけ語ったらしい。手紙には「小学1年のころから貯めたお金」との記述もあった。まさに「上手から下手へすっと一度だけ通りすぎて」といった風だ。司馬さんならずとも気になる人物だろう。上地克明市長はSNSに「お気持ちに感極まり、涙が止まらなかった」と記し、「暗い世相の中、情けの有り難さを深く感じ」たと感謝していた。市は寄付として扱うことにしたという
▼司馬さんが先の一文で取り上げた無名の人は、明治維新後の日本を背負って立つ人物の一人がまだ若かったころ、死の淵から救った医者である。そこには高潔な人生があった。おそらくかの男性にも