分からないということには大いに価値がある。20年ほど前、世の常識に反するそんな言説を掲げた本が話題になった。小説家橋本治の『「わからない」という方法』(集英社新書)である
▼氏の主張をかいつまんで言うとこうだ。一般的に重視されるのは「分かる」で、その状態を得るため人はすぐに出来合いの答えを求める。そこに自らの頭で考える姿勢はない。では「分からない」に向き合った場合はどうなるか。分からない点や理由を探求する作業が始まろう。答えがないなら自分の頭で考えるしかない。つまり「分からない」は思考の力を自分に取り戻す方法だったのである。分からなさの度合いが大きく複雑なほど自分の頭もより活発に働く
▼久々にその本を思い出したのは、きのう付の読売新聞「顔」欄で、ことしの猿橋賞を受賞した田中幹子東京工業大教授のコメントを読んだからである。田中教授が研究分野に生物学を選んだのは「一番分からないから、一番面白いと直感した」からなのだという。同賞は自然科学で顕著な業績を上げた女性科学者に贈られる。教授は胎児の指間の水かき状組織が成長とともに消える現象に着目。活性酸素が関わっている事実を突き止め、動物が海から陸に上がる過程で獲得した可能性を示した
▼「分からない」から逃げなかったからこその成果だろう。先の本にもこの方法は「迷路を歩くための羅針盤」だと記されていた。今はインターネットで楽に答えが見つかる便利なご時世である。ただ一番面白いことはそこにない。ではどこに。それは「分からない」。