今は神話が生活に根付いている時代ではない。しかし全く必要がなくなったのかといえばそんなことはない。神話学者ジョーゼフ・キャンベルはそう考えていた
▼かつて人々が神話に求めていたのは、つかみどころのない「生きる意味」などではなく「いま生きているという経験」だったそうだ。「苦しみ、戦い、生きていく」苦難の物語をわがこととして内面化することで、生きる喜びを感じていたというのである。昔は神話を実際の体験と変わらない現実として受け止めていたらしい。限りある命しか持たない人間が生を意義あるものにするための手段だったのだろう。『神話の力』(早川書房)に教えられた。東京オリンピックを連日観戦して思ったのだが、現代人にとってはこの大会が神話の一つになっているのでないか
▼終わって4日たったというのに今も胸の内の熱はさめない。苦しみ、戦い、挑戦していく選手たちの苦難と冒険の物語。見ているといつの間にか自分がその物語の中に入り込んでいた。コロナ禍による行動制限で生きる喜びを感じる機会が減ったことも影響していよう。多くの人が力強く美しい物語を必要としていた。強大な相手との戦い、若者の躍進、英雄の挫折、宿命の対決、王者の風格―。五輪で見たものはまさに神話のモチーフそのもの
▼日本のメダル獲得数は金27、銀14、銅17の合計58で歴代最多。世界3位の成績だった。もちろんうれしい結果である。ただメダルに関係なく全ての選手に物語があった。「いま生きているという経験」をくれた現代の神話に感謝したい。