小説家の浅田次郎さんには53年間通い詰めた食堂があるという。神田神保町すずらん通りのその〈キッチン南海〉がコロナ禍真っただ中の昨年、閉店した。浅田さんは「おのれの人生の一部分が、消えてなくなるような気がした」そうだ。エッセーに記していた
▼出会いは15歳の夏。すきっ腹を抱え、金もなく通りをぶらぶらしていたとき、手持ちの金でぎりぎりライスカレーが食べられる〈南海〉を見つけたらしい。有名作家になり、収入が増えても足繁く通い続けた。頼むのは決まってカツカレーだ。会話はない。黙々と食べ、「ごちそうさま」とだけ言って店を出る。そんな人生の一部が永遠に失われた。似たような経験をしている人も多いのでないか
▼閉店までいかなくとも、外食産業はコロナ禍で苦境に立たされている。さらにそのあおりを食っているのが米農家だ。相次ぐ緊急事態宣言による外食需要の低迷で在庫が積み上がり、全国的に米価の下落が続いているのである。北海道産米も例外ではない。JAなどが生産者に支払う仮渡し金が2021年産米も減額になるという。2年連続だが、減額幅はことしの方が大きいようだ。経費は変わらないのに収入は減っていく。このままでは窮地に陥る農家も出よう。本道はじめ新潟、秋田といった一大産地ほど影響は深刻である
▼浅田さんは食べ終えてスプーンを置き「ごちそうさま」を言う。その言葉の意味は「天の恵みにごちそうさま」だそうだ。外食産業は天の恵みと人をつないでいる。いつまでも断ち切ったままにしておくわけにはいかない。