米ニューメキシコ州タオス山の裾野、プエブロ集落で暮らすインディアンの古老の言葉を集めた『今日は死ぬのにもってこいの日』(ナンシー・ウッド、めるくまーる)に、自分が本当は何者なのか気付く過程を描いた一文があった
▼こう始まる。「若いとき、わたしは何も知らなかった。背はすごく高かったが、中身は育っていなかった。そこである日わたしは山へ行った。すこしだけ死んでみようと思ったのだ」。むろん実際に死ぬわけではない。身を守るものの一切ない過酷な自然の中に分け入り、灼熱(しゃくねつ)の太陽や容赦のない風雨にさらされることで自分に成長を強いたのである。一人前の大人になるための通過儀礼というわけだ
▼日本では成人の日が大人になったことを自覚する日である。ことしは新成人を会場に招いて式典を開いた自治体が多かったようだ。昨年はコロナ禍のため、人が集まる形での開催はほとんど見送られた。晴れやかな若者たちを見るに、やはり節目はあった方がいい。ことし4月1日からは成年年齢が20歳から18歳に変わる。成人式をいつするかの議論もあるが、それより大事なのは彼らへの力添えだろう。自己責任だからと丸腰で世に送り出すのでは、背は伸びたものの、何も知らず中身も育っていない成人が増えるだけだ
▼親の同意がなくても借金やクレジットカードなどの契約ができるようになれば、金銭トラブルに巻き込まれる人も増えよう。ただでさえ若者には厳しい今の世の中である。大人になるときまで死ぬほどつらい通過儀礼をさせる必要はない。