小説家太宰治に、紙幣が自ら来歴を語る一風変わった短編「貨幣」がある。主人公は「七七八五一号の百円紙幣」。少し年を重ねた女性という設定である
▼中にこんな場面があった。新しい紙幣が出て自分の価値が下がったことを嘆き、こう懐かしむのだ。「私の生まれたころには、百円紙幣が、お金の女王で、はじめて私が東京の大銀行の窓口からある人の手に渡された時には、その人の手は少し震えていました」。1946年の作品だが、〝お金は実体があってこそ〟と思っている人はいまだ少なくあるまい。キャッシュレスの取引がずいぶん増えたとはいえ、現金に信頼を置く感覚は、なかなか変わらないものである。だからだろう。こんなニュースを聞くと頭がついていかない
▼暗号資産の交換業大手「FTXトレーディング」の経営破綻である。暗号資産とはインターネット上でやりとりできる財産的価値で、支払いや法定通貨との交換に使える。ただ、実体はもちろん価値を裏付ける資産もないという。しかも国や中央銀行が関わっていないため安定もしていないのだ。つまりは当事者同士で価値を認め合っているだけ。はたから見るといわしの頭を信心するのと変わらない。そんなものだから破綻といっても大したことはなかろうと思いきや、負債総額は7兆円に上るそうだ。顧客は世界で百万人。日本人もそれなりにいるらしい
▼先の小説では銀行で紙幣を受け取った男は家に帰り、まずそのお金を神棚に上げて拝んだのだった。暗号になろうと「ペイペイ」になろうとその思いは忘れたくない