一人の青年が、「僕一人が世間に住みつく根を失って、浮草のように流れている」との思いにとらわれている。小説家梶井基次郎は短編『ある崖上の感情』で、そんな孤独な青年に自分の頭の中で起こる奇妙な出来事を語らせていた
▼青年は崖の上に立つ自分をよく想像する。そんなときは決まって、崖道を誰か人が歩いてくる足音が聞こえるのだという。その足音はそうっと青年の背後に忍び寄り、ぴたりと止まる。構わなければいいのだが、青年は背後に来た人が自分の秘密を知っている気がして落ち着かず、崖から突き落としたい衝動にかられる。もちろん最初から最後まで妄想だ。なのにそれが本当の出来事だとの思いも捨てられない
▼長野県中野市で25日発生した住民女性と警察官合わせて4人が殺害された事件の容疑者も、似たような不満を親に漏らしていたと聞く。報道によると容疑者は女性2人が家の前を散歩しながら〈自分のことを「独りぼっち」だとばかにしている〉と思い込んでいたそうだ。容疑者は近所に住む31歳の男。大学を中退して故郷の実家に戻り、ほとんど周囲と交流することなく暮らしていたのだとか。女性2人とは直接の面識がなかったというから、何らかのきっかけで想像が悪い方へ暴走したのかもしれない。事件の一報を受けて駆け付けた警察官2人を、猟銃でためらうことなく殺害するなど残虐性が際立つ
▼今回もそうだが安倍元首相銃撃暗殺といい、岸田首相爆弾襲撃といい、最近は男性の単独凶悪犯罪を目にする機会が多い。共通するのは世間からの孤立だろう。