年齢を重ねるにつれて、子どものころには疑いもしなかった「正義」が実はなかなか扱いにくいものだと分かってくる。うなずく人も多いのでないか
▼芥川龍之介も同じように考えていたらしい。「正義は武器に似たものである。武器は金を出しさへすれば、敵にも味方にも買はれるであらう。正義も理屈をつけさへすれば、敵にも味方にも買はれるものである」。随筆『侏儒の言葉』に、そんな警句が記されていた。人は皆、自分なりの「正義」を持っている。往々にして一方の「正義」は、もう一方から見ると「不正」に映る。脳科学者の中野信子さんは著書『心の闇』(新潮新書)で、人はその「正義」を免罪符とし、「正義のためなら誰かを傷つけてもいい」との攻撃欲求に承認を与えると指摘していた
▼奈良市の駅前街頭で参院選の応援演説をしていた安倍晋三元首相を手製の銃で殺害した山上徹也被告も、安倍氏を不正の象徴に見立て、犯行に及んだのだった。あの悲しい事件からきょうで1年である。山上被告からは自らの境遇への怒りと、「正義」の化身となって悪を倒そうという強固な意思を感じる。ただ、それは一人で育てた感情ではあるまい。「正義の味方」を気取る特定の野党とマスコミが執拗(しつよう)に安倍氏を悪者にしてきた空気も影響していよう
▼その証拠に暗殺直後、山上被告に同情し、安倍氏は自業自得と公言する著名人が少なからずいた。あきれるほかない。人一人が無残に殺されてなお、どこかに「正義」があったなどと。ずいぶん安い「正義」を買ったものである。