何かを待つときの心情というのは複雑なものだ。その対象がうれしいことか、つらいことかにも左右される。ただ、あえて二つに絞るのなら焦りと期待だろう
▼額田王の有名な古歌がある。「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな」。海の向こうの国へ出発しようと、明るい月と穏やかな潮を待っていた。絶好の条件を願うじりじりした時間が終わり、待ちに待った機会がついに訪れたのである。菅首相が7月20日の国際オリンピック委員会総会で述べた言葉にも、そんな〝待つ〟ことの機微が感じられた。「長いトンネルにようやく出口が見えはじめている」との発言である。ワクチン接種が軌道に乗り、お手上げだった新型コロナウイルスとの戦いの先に光明が差してきたとの意図だろう
▼先はまだ長いが船はやっと岸を離れ、収束に向けこぎ出せたとの心境を語ったものでおかしな点はない。ところが作家の村上春樹さんがこの発言にかみつき、ちまたのちょっとした話題になっている。TOKYO FMの「村上RADIO」で29日、「僕は菅さんと同い年だけど出口なんて見えません。この人は聞く耳はあまり持たないけど目だけはいいのかも。あるいは見たいものだけ見ているのかも」と皮肉ったのだ
▼誤解である。速さ優先のためドタバタもあるが日本のワクチン政策はそう悪くない。出口は見えてきている。第5波前の発言を今持ち出すのも公平ではなかろう。焦りと期待のはざまで接種を待つ人がまだ大勢いる。筋違いな怒りを聞かされるのは気持ちのいいものではない。