峠越え、機関士泣かせの難所
旧狩勝線では明治、大正、昭和と3つの時代にわたり、多くの人や物が運ばれた。鉄道遺構群を見ると峠越えの鉄道輸送がいかに大変だったかを知ることができる。
新得駅を出発した汽車は約4km先で25パーミルの急勾配を上り始める。いったん、新内駅で停車し、発車直後から再び急勾配となり、そのままの状態で大カーブに差し掛かる。
機関士として旧狩勝線を運転し、新得駅前にある「火夫の像」のモデルにもなった大崎和男さんは「急勾配と急カーブの連続で、車輪が空転したまま止まることもあった」と振り返る。
大カーブの築堤は馬てい形だが「線路は複曲線で、曲線と曲線の間に40cmの直線があり、これが曲線抵抗を緩和した。脱線防止のための護輪軌条も敷設されていた」(大崎さん)。
峠の直下にあった狩勝隧道(ずいどう)は、雪崩被害を防止するため大正期にコンクリートで両坑口部が増築されたが、隧道内が急勾配だったため、機関士泣かせの難所だった。
その一方で、狩勝隧道の新得側に広がる景観は素晴らしく、東大雪のウペペサンケ山や然別火山群の山々が一望できた。「日本三大車窓」と呼ばれるなど開通直後から絶賛され、狩勝峠の名が広く知られるきっかけとなった。
旧狩勝線がその役割を終えたのは1966年。近代化車両の導入に伴い新線への切り替え工事が進められたことによる。新得町郷土研究会事務局長の秋山秀敏さんは「輸送の近代化が進むにつれて、足かせになっていった施設もあった」と語る。廃線後、一部は狩勝実験線として残され、小さな要因が重なり事故につながる競合脱線の原因究明に向けた研究が行われた。
旧狩勝線の鉄道輸送は街に多くの発展をもたらしたが、狩勝隧道をはじめとする鉄道施設の建設工事では、日本人労働者や囚人が従事し、労働基準法のない時代、過酷な環境の下で命を落とした者も多かったとされる。
町では83年、町制施行50年を記念し狩勝高原に「苦闘の碑」を建立。碑には「この地で潰(つい)えた土工労働者のことなどを忘れてはならない。その礎の上に本町は歩んで今日に至っている」と、工事で犠牲となった人々への追悼と感謝の言葉が刻まれ、その存在を後世に伝えている。
(北海道建設新聞2020年11月17日付1面より)