悪魔は天使の顔をしてやってくるという。「あなたの望みをかなえてあげたい」。優しくそう言われると信じたくなるのが人情である
▼ドイツの文豪ゲーテ作『ファウスト』の筋書きをご存じだろう。人間の知力に限界を感じて絶望するファウスト博士に、悪魔がこんなことをささやく。「私ならこの世界の全てを経験させてあげられる。条件はいずれ魂をもらうことだけ」。知を渇望する博士が断るはずもなかった。香港で今も続く市民抗議デモの発端となった出来事も最初は天使の顔をしていたようだ。昨年、香港人の男が台湾で交際中の女性を殺害し、香港に逃げ帰った。ところが台湾との間に犯罪人引き渡し条約がない。そこで香港政府は「逃亡犯条例」を改正し、引き渡しできる体制を整えようとしたのである
▼法治の精神からして当然の流れだろう。犯罪者の逃げ得は許すべきでない。正義ここにありである。ただ、そこに巧妙な落とし穴があった。中国本土へも引き渡しできる改正案だったのである。中国では政権を批判したり、共産党の方針に従わなかったりする人物が正当な理由なく次々と拘束されている。香港政府は中国の意を酌む。改正案が通ると香港で同じことが起こり、香港人はもとより外国人も中国に引き渡される事態が生じよう。殺人犯の引き渡しを餌に、司法の独立という魂が奪われようとしているのである
▼香港中心部を埋め尽くす100万人(主催者発表)のデモ。映像を見て圧倒された。誰が見ても明らかでないか。香港の人々はファウスト博士の道を選ぶつもりはない。