子供のころから刺身が好きではありませんでした。食べられないとか言うのではなく、おいしいものだという実感がなかったのです。「ただ醤油の味しかしない食べ物」という感覚です。お寿司は、すし飯をおいしいと思っていたので、問題なく食べていたのですが…。成人となり、宴会に顔を出すようになっても、初めに出てくる刺身の盛り合わせは、あまり手を付けませんでした。もちろん周りは喜んで口にして、お酒もはかどっていました。ですからおいしいものに違いはないはずですが…。
いつの頃か、判然としていないのですが、ある宴会で鯛の刺身を食べる機会がありました。それを口にした瞬間、あまりのおいしさに驚きました。刺身に初めて出会ったような感動でした。それから、さまざまな刺身のおいしさに気づき始め、一方で、本当においしくない刺身もあるということに気づいたのです。
生きが下がっているとか、安い居酒屋だとか、そういうことではありません。同じようなネタでも、おいしいものと、そうでないものがあるのです。興味を持ち、板前さんたちにいろいろ尋ねてみました。結論は包丁でした。
魚の身のブロック状のものを「さく」というのだそうですが、さくから刺身を切ることを「引く」というのだそうです。刺身は切るものではなく引くものだと。研ぎ澄まされた刺身包丁で、一気に引く。決して押したり、前後に動かしたりしてはならない。引くことで、身がつぶれず、滑らかな舌触りが生まれ、そしてうまさが引き出されるのです。
こうして引かれた刺身の切断面は、ピカピカに光っています。この輝く刺身を目の前にすると、口に入れなくても、うまさが口の中に広がる思いがします。箸をつける前に、ほれぼれと眺めることが、ままあるくらいです。
子供の頃、こんな職人技に遭遇しなかったのは、ごく当たり前のことです。もし、子供の頃にこれを知っていたら、どんなに贅沢なガキになっていたかと思うと、むしろありがたいことでした。
今でも刺身には閉口することが多いのです。「引いていない」刺身を大量に盛り付けるレシピが横行しているからです。結局、あまり箸をつけずに終わってしまいます。宴会のスタートに出てくる大事な料理です。美しく引かれた刺身を数枚、ゆっくりと味わえば文句はないと思うのですが…。
(札医大医学部教授・當瀬規嗣)