石炭博物館リニューアル
■炭都夕張の歴史発信 市内外から人が集い学ぶ拠点へ
北海道の発展を炭鉱で支えた空知。多くの炭鉱マンが生活していた夕張市で、その歴史を伝える石炭博物館が4月28日にリニューアルオープンした。本館や模擬坑道の老朽化を改善するだけではなく、当時の生活が伝わるよう展示物も見直した。ことしは北海道命名150年に加え、1888(明治21)年に夕張市で石炭の大露頭が発見されてから130年の節目でもある。夕張の歴史を残す社会教育施設として生まれ変わり、市内外から人が集い、関わり、学ぶ拠点となるよう期待が寄せられている。
高松7の1にある石炭博物館(RC一部S造、地下1地上2階、延べ3526m²)は1980年7月に開館。外には、大炭層の露頭や実際に使われていた坑道の坑口も残っている。大規模改修は2016―17年度の2カ年で取り組んだ。16年度に模擬坑道の改修を進め、17年度に本館を大規模改修した。総事業費は約4億9400万円に上る。
リニューアル後の施設は、1階に明るく開放的なエントランスホール、さまざまな催事に対応できる企画展示室などを設置した。2階は常設展示で、石炭が見つかった当時から財政破綻まで時系列に沿って学べるほか、博物館スタッフが元炭鉱マンに当時の生活の様子をインタビューした映像を視聴でき、貴重な史料から炭都・夕張の歴史に触れられる。施設の目玉は模擬坑道で、100年以上前に造られたこの坑道には実際の石炭層があり、石炭を運び出す様子を見学できる。
施設は、まずは市民に利用してもらうことを目標にしており、リニューアルオープン以来、平日は約100人、休日は300―400人が訪れ、8月16日時点で来場者数
は2万1900人を達成。
展示品の収集やインタビューなど、全体的な改修に携わった同博物館管理部長の原田唯史さんは「坑道を見学できるのが強み。空知管内でも入れるのはここだけ。本物を見せることで、住民や元住民には懐かしさが、その他の人には驚きが伝わる施設となっている」とその特長を語る。また、「夕張は北海道の開拓だけではなく、日本を支える役割を果たしてきた」と力強く話し、多くの人に歴史を発信する積極的な姿勢を示す。
夕張財政破綻から再生へ
■「炭鉄港」で広域連携 産業の記憶残し誇り取り戻せ
夕張市の歴史をひもとくと、1874(明治7)年に米国人鉱山地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンの探検隊が夕張川上流を調査し、88年に道庁技師の坂市太郎が夕張川支流の志幌加別川上流で石炭の大露頭を発見したことに始まる。そして、92年に夕張炭山で採炭が始まり炭鉱のまちとして栄えていく。明治、大正、昭和とその勢いは衰えず、人口も一時は12万人を記録した。
ただ、1965年以降、エネルギー政策の転換により次々に炭鉱は閉山。多くの人が職を求め市外へ出ざるを得なかった。人を食い止めようと考えた施策が―炭鉱から観光へ―。大規模なレジャー施設の建設にかじを切り多額の資金をつぎ込むも、財政を逼迫(ひっぱく)させ、2006年に財政破綻した。
それから10年。財政再生計画を抜本的に見直し、17年3月に総務省から同意を受け、新たなスタートを切った。その土台となった地方版総合戦略のテーマは「RE START More Challenge」。鈴木直道市長を先頭に約8200人まで減少した市民と力を合わせて、新たなまちづくりに取り組む決意が示されている。
炭鉱の閉山で落ち込んだ夕張市だが、空知管内の多くの自治体が炭鉱閉山で人口流出を経験。炭鉱は負の遺産のイメージが強いが、北海道の近代化を支えた一大産業。この記憶を後生に残し、地元への誇りを取り戻そうと「炭鉄港」という広域的な取り組みが始まった。炭鉱の歴史を持つ空知、鉄鋼を持つ室蘭、港湾を持つ小樽が連携。7月13日には、自治体や振興局職員、観光協会などで炭鉄港推進協議会を立ち上げた。
目標は19年度の文化庁の日本遺産登録で、ズリ山などの炭鉱遺産に加え、炭鉱を起源とする馬肉のモツ料理「なんこ」や具だくさんの中華スープ「ガタタン」といった食文化も日本遺産に申請予定。バスツアーなどを通して周知を図り19年1月の申請を目指す。
主体となる空知管内は人口減少にあえぎながらも、歴史を見つめ直し、さまざまな世代を巻き込みながら、新たな一歩を踏み出している。節目の年を機に、今後どのような動きを見せるのか「炭鉄港」に期待が高まる。
(空知支社 塩原歩、建設・行政部 瀬端のぞみ記者)